METライブでもってチレア作曲のオペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」を見て来たのでありますよ。

オペラ素人としては、プロダクションごとの演出の違いや出演する歌手の歌唱の違いといった点に

未だなかなか目を向けられず、どうしてもまだ一度も接したことの無いタイトルばかりを気にとめて

出掛けていくてなところでしょうか。


フランチェスコ・チレアという作曲家のこの歌劇のタイトルだけは聞き知ってはおりましたが、

だいたい他の曲も含めて、ただの一曲も聴いたことのない作曲家の作品でしたので、

個人的にはつい食指が動くのも当然でありまして。


METライブ「アドリアーナ・ルクヴルール」


チレアの作品の中では最も知られた一曲とは思いますけれど、

公演自体はなかなか難しいようですね。

ソプラノ、テノール、メゾ・ソプラノの三者にたっぷりの歌唱が重点配分されていて、

キャストを粒揃いにするのがそも大変なようす。


今回のMETではそれぞれにアンナ・ネトレプコ、ピョートル・ベチャワ、

そしてアニータ・ラチヴェリシュヴィリを配したキャストでありましたですが、

そもそも三枚揃える以前にソプラノの役どころ(タイトル・ロール)には誰を充てるかも

その役柄と演技(歌がうまいからというだけではないようで)のゆえか、難しいらしいのですよ。


幕間のインタビューの中で紹介されたエピソードとして、

往年の超有名ソプラノであるレナータ・テバルディはメトロポリタン歌劇場で

アドリアーナをなかなかやらせてもらえないことから、当時のMET総裁に直訴したとか。

また、別のソプラノもアドリアーナ役をと申し出て断られ、

その後METの公演に出演することがなくなったとか。


ま、かような曰くつきの「アドリアーナ・ルクヴルール」ですけれど、

(例によってオペラのどの部分をどのように見るかではありますが)曲がいいなあと。

オーケストラで演奏される楽曲などにはつい耳をそばだててみたりしたのですなあ。


ひとつの分類として、チレアという作曲家、またこのオペラ作品は

「新イタリア楽派」ということになるのだそうが、この新イタリア楽派なるもの、

Wikipediaにはこんなふうに書かれてあります。

フランスのジュール・マスネ、およびドイツのリヒャルト・ワーグナーの影響を受け、重厚で色彩感に富むオーケストレーション、ライトモティーフ的語法の多用などを特徴とする。

ワーグナーはともかく(失礼!)、マスネはMETライブなどを通じて聴いたいくつかの曲が

接するたびごとに「ほお!」と思うものだったりしたものですから、

「そうかそうか、あのマスネの影響下にあったのだあね」などと訳知り顔になってしまったり。


ですが、その一方でやはり幕間インタビューでは「ヴェリズモ・オペラ 」と言われていたりも。

ヴェリズモの代表作であるレオンカヴァッロの「道化師」とは舞台役者の絡む物語なだけに

つい比べてしまうわけですが、その生々しいという以上に激しい感情表出のある「道化師」と

同じ仲間と言われても…と思わなくもない。


確かに先ほど触れた3枚看板、三つ巴の愛憎劇には感情のぶつけあいがあったりしますが、

その間に立ってアドリアーナに寄り添う舞台監督のミショネの健気なおちつき?が

ともするとうんざりしてきてしまう過剰な激白をうまくつないでいるようにも思ったものですから。


そうしたあたりでヴェリズモ・オペラと言いきってしまっていいのかな…と思ってましたら、

これまた幕間インタビューで指揮したジャナンドレア・ノセダがロマン派の伝統を受け継ぎつつ、

新しいところにも踏み出したのがチレアで、ヴェリズモ風味はその部分でもあるような、

そんなことを言っていたので、さもありなむと思ったものでありますよ。


だいたい「市井の人々に起きる悲劇を写実的に描く」と

映画館で配られたタイムスケジュールにヴェリズモ・オペラの用語解説がありましたけれど、

「アドリアーナ・ルクヴルール」の背景は18世紀前半の貴族社会でもあるわけですし、

タイトルロールが舞台女優といってもコメディ・フランセーズという王立劇団ですから、

市井の人々とは縁遠いと言いますか。


ヴェリズモ・オペラは比較的短めの作品という印象(長いとやっぱりうんざいするかも)ですが、

そうしたことを意識してか、チレアが作曲にあたって原作戯曲にカットしたところがあるそうな。

そのため、Wiki には「若干話のつながりが悪くなっている感がある」とも書かれてあるという。

 

(チレアがそういうつもりだったかは分かりませんけれど)むしろヴェリズモらしい外枠は忘れて

たっぷりとした劇作として作り込んでもらっていたら(チレアの楽曲は十分それに堪えるはず)と思ってしまうのでありました。