さて、松浦武四郎の生家を後にして旧伊勢街道を行くことしばし。
沿道ではかようなものの見られました。
地元では松浦武四郎に因んだお祭りもあるのですなあ。
お隣は小学校の塀に描かれた壁画の一部。
おそらくは地域の歴史を学ぶ中で武四郎にも触れているのでしょう…と、
そんなこんなのうちにほどなく到着しましたのが松浦武四郎記念館でありました。
早速に中に入ってみますと、さすがに「ふるさと創生」の費用を投じただけあって
先に訪ねた大黒屋光太夫記念館とは規模の違いがありますね。
武四郎の生涯と業績が説明と展示物で紹介されておりますよ。
ですが、とにもかくにも松浦武四郎といえば北海道との関わり。
もっとも武四郎が探査に当たった頃には蝦夷地と呼ばれていたわけですが、
日本海・オホーツク海沿岸地域を「西蝦夷」、太平洋沿岸地域を「東蝦夷」、
そして幕末頃には樺太を「北蝦夷」と言ったりしていたそうです。
かようにざっくりした地域分けで呼んでいた蝦夷地の詳細を
6回にわたる探査で明らかにしたのが武四郎でありますね。
それまで沿岸地域こそ地図化されていたものの、内陸部の奥の奥まで
事細かに地名入りで紹介する地図を武四郎は作るのでして。
何も成果は地図ばかりではありませんで、
蝦夷地を縦横に渡り歩いた成果を本にまとめているのですね。
「石狩日誌」、「知床日誌」、「十勝日誌」、「納沙布日誌」、「夕張日誌」、
「天塩日誌」などが一般向けに刊行され「かなり売れたものと思われる」のだとか。
そこには、分かりやすく読みやすくという武四郎なりの配慮がありまして、
挿絵がたくさん入っていたそうな。それも、フィールドワーク中には
常に「野帳」なるノートを携帯し、ちょこちょこメモや写生をしていたからこそ
可能だったのですなあ。
されど、いくらメモをとったとしても内陸部への探査行は
武四郎ひとりでできるものではありませんですね。
そこで大きな助っ人の役割を果たしてくれたのがアイヌの人たちだったわけです。
未踏の地を巡るには現地をよく知っている人の助力があればこそで、
映画「アラビアの女王 愛と宿命の日々」に描かれた英人女性ガートルード・ベルが
「砂漠の女王」と呼ばれるまでになったのも、敬意を持って砂漠の民の懐に
飛び込んでいったから。武四郎とアイヌの人たちの間も同じ様であったのでしょう。
武四郎が残した数々の探査記録は単に地誌であるにとどまらず、
アイヌの人たちの文化、風俗、生活などを克明に記しているのだそうです。
そして、当時の幕府や松前藩の役人たちがどれほどアイヌに蔑んだ扱いをしていたか、
アイヌの人たちから聞き取った数々の実例も記録されていると。
アイヌ関係の記述をまとめたものとして、武四郎は安政五年(1858年)に
「近世蝦夷人物誌」を刊行しようとしましたが、幕府の函館奉行は出版を許可しなかった。
本の内容がいかに幕府に都合の悪いものであったかと想像されるところです。
同書が世の人々の目に触れるようになったのは明治も末になってからと言いますから、
武四郎が没した明治21年(1888年)にはまだ発行されていなかったのでしょうか。
草場の陰で武四郎も「やっと発刊されたか…」と思ったかもしれません。
もっぱら「北海道の名付親」ということばかりがクローズアップされがちですけれど、
武四郎が伝えようとしたアイヌの人たちが置かれた実状とその歴史にも
もそっと目を向けてみなくてはいけんなと思うのでありました。
…てなことを思い巡らしたりしつつ、近鉄伊勢中川駅への戻りには
一日に数本しかないコミュニティーバスをつかまえることできました。
バスの名称は「たけちゃんハートバス」、ここでも松浦武四郎がフィーチャーされて…。
と、(この後、実際にはちょっくら白子湊に戻ったりしましたですが)伊勢を訪ねた一日目は
大黒屋光太夫と松浦武四郎にまつわる探訪に終始したのでありましたよ。
唐突ながら父親の誕生日に合わせて両親と過ごしにまいりますので、
明日はお休みいたします。また週明けにお目にかかれますれば幸いでございます。