町中のそこここにひょいと現れる案内板に従って、次にたどりついたのは墓地。
住宅地の中にずいぶんと唐突にあるものだなあと思ったりしたですが、
取り敢えずここには大黒屋光太夫を始め神昌丸乗組員の供養碑があるのですね。


「大黒屋光太夫らの供養碑」

右側の小さい方は「亀屋一門の墓」、左側が「大黒屋光太夫らの供養碑」ということで。
光太夫は「亀屋に生まれ、大黒屋に養子に行ったという説が有力であ」るようで、
いわば実家の墓となりましょうか。


亀屋一門の墓

「釈久昧信士」というのが光太夫の法名とのことですけれど、

併せて天明二寅十二月十日とも刻まれているとは、
もはや帰らぬ人と考えられて出港の翌日を命日として弔いが行われたのですな。


ちなみに浄土真宗の「法名」は一般的な「戒名」とは意味合いが異なるとか。

そういえば、伊勢は一向一揆でも有名でしたですねえ。光太夫もまた一向宗であったのですな。


「大黒屋光太夫らの供養碑」

お隣にも(かなり見えにくいですが)久昧霊とあるのが見え、
裏面には乗組員の名が刻まれているという供養碑ということで。
三回忌にあたる天明四年十二月に船荷の荷主であった木綿問屋が建てたものだそうです。
よもや最果ての地で生き長らえていようとは誰も思わなかったのでしょうね。



と、この後の道をたどるとようやくにして海に出る気配。
ですが、案内板に導かれる先は先に触れてしまった「壁画」ということになりますので、
海に出てみたということだけ。


伊勢若松の海

ですが、ここから光太夫ら一行を乗せた神昌丸は船出したのか…と
感慨にふけるのは早過ぎでして、何となれば出港地点は白子湊なのですから。


ということで「壁画」のある千代崎漁港からしばしの歩きで近鉄千代崎駅へ出、
(海沿いにずっと歩いていけないわけではありませんが、今回は時間節約で)
列車でもって白子駅へ。そこからまた歩いて浜へということになります。


近鉄白子駅


駅から歩いて20分ほど、白子新港緑地公園内に大きなモニュメントが見えました。
こここそが「大黒屋光太夫船出の地」であるということでありますよ。


「大黒屋光太夫船出の地」モニュメント@白子新港緑地公園

モニュメントの足元には、「おろしや国酔夢譚」の著者・井上靖に求めて得た
「大黒屋光太夫・讃」なる一文が記されておりました。
冒頭部分はこんな書き出しです。

ここ、新装なった鈴鹿市白子港は、十八世紀末、神昌丸船頭大黒屋光太夫が、
容易ならぬ運命を荷って、東洋史の重要な一ぺえじの中に入って行った、その
難多き航海に於ける乗船、出航の地である。

「東洋史の重要な1ページの中に」とはお互いに未知なる日本とロシアの間に立ってと、
そんなことでもありましょうか。そういえば、先に訪ねた伊勢若松の記念館前には
かような碑がありましたなあ。


「露日交流の記念碑」@大黒屋光太夫記念館

何が書かれてあるのかと申しますれば「開国曙光」と。
先に見た「顕彰碑」と同じ言葉ですけれど、碑自体の持つ意味は違っておりまして、
「露日交流の記念碑」とされておりますよ。

露日交流の歴史の1ページに偉大な足跡を残した大黒屋光太夫と彼の同胞らを讃え、イルクーツク市と鈴鹿市の友好の証として、また、両国民の平和への願いをこめて、雄大で美しいここロシアの大地に、この記念碑を建立する。

碑の隣にあるプレートに書かれたところから察するに、ロシアのイルクーツク市にも
同様の碑があるのかなと思いましたら、プレートは同じでも姿かたちは
全く異なるモニュメントがあるようで。


とまれ、結果的にもせよ、日本とロシアの交流に関わることになった光太夫たち。
彼らが神昌丸に乗り込んで船出した白子湊の海はたいそう静かに広がっておりましたですよ。


光太夫らが船出した白子湊の海


そういえば、鈴鹿市出身の歌人・佐佐木信綱は光太夫に思いを馳せて
このような歌を詠んだそうです。

海ほからにまつ原青しこの浦ゆ船出せし人のくしき一生

大黒屋光太夫の奇しき人生を思いつつ歩き廻った一日はおだやかに暮れゆくのでありました。