さて、江戸東京たてもの園
の探訪はまずもって西ゾーンというあたりを見て回りましたが、
ようやくその西側の端までやってきました。見るからに古い農家が建っておりましたよ。
この一角には萱葺き屋根がいくつか並んで、さながらどこぞの「古民家園」の佇まい。
その中の一軒がこちらです。
江戸中期の寛保2年(1742年)頃には使われていたろうという農家の建物でして、
今でいう世田谷区岡本、つまりは国分寺崖線の多摩川を望む台地上にあったものだそうです。
干してあるだいこんにばかり目が向いてしまうところながら、その後ろの格子窓、
これは「外部からの獣の侵入を防ぎつつ光を採り入れ、換気をするためのもの」であると。
今でこそ高級住宅地といった印象のある地域ですけれど、
当時はキツネやタヌキの出没する場所だったのでありましょうね。
こうした窓に加えて「屋根の軒も低く閉鎖的な造り」である点は、
「古い時代に建てられた民家の特徴をよく残している」のだそうでありますよ。
間取りとしてはご覧のように簡素な造りと思うところではありますが、
室内の空間としては屋根裏が無い分、のびのびと広い。
ただ、冬はさぞ寒いだろうなと思いますね。
囲炉裏はどうしたって欠かせないものでしょうなあ。
と、今度は江戸時代後期の農家ということですが、
時代様式的な違いよりも分かりやすいのは農家にも身分差と言いますか、
違いがあったということでしょうか。
パッと見は単に萱葺きの農家とも写りますけれど、立派な玄関を備えているではありませんか。
広さも、間取りを見れば一目瞭然。先に見た江戸中期の農家とは台所の広さも違います。
奥座敷があるということは手前側の座敷は客を迎えたりする用でしょうか。
この建物は元々、三鷹にあったものということですけれど、当時の三鷹あたりは
(その地名のとおりに)「幕府および尾張徳川家の鷹場」であったそうですから、
鷹狩にやってきたお殿様…といわず、そのお付きくらいでしょうか、
そうした人を迎える座敷になっていたのかもしれませんですな。
鷹狩ついでにお侍が「これ主人、茶を一杯所望いたしたい」てなことで立ち寄り、
「ときにこのあたりの名物なんじゃな」と尋ねると、秋刀魚が出てきて…では、
目黒になってしまいますが(笑)。
ところで、かような萱葺き建物の保存エリアにひとつ変わった建造物がありまして。
あたかも屋根だけといったようすです。
解説によりますと「きのこに似たユニークな外観を持つこの建物」は
「奄美大島にあった高床式の倉庫」なのだそうでして。
湿気やネズミから穀物などを守るために、貯蔵箇所は屋根の中ということになりますので、
見た目はがらんどうの建物ということでありますよ。
それにしても、江戸東京たてもの園に奄美大島の移築物があるというのは
いささか胡乱な話でもありますが、かつて近隣の保谷(現・西東京市)には
民俗学博物館なる施設(今はもうない…)があり、そこに移築展示されていた高倉を
同館の閉鎖に伴い、こちらに再移築したのだとか。
ちなみにここでいう「民族学博物館」とは
渋沢敬三(渋沢栄一の孫ですな)の集めた民俗学コレクションなどを収めると同時に、
日本で初めて野外展示を持つ博物館であったのだそうな。
渋沢コレクションは大阪吹田の国立民族学博物館に移されたということですけれど、
いったいどんな博物館だったのでしょうかね。気になるところではありますが、今は無い…。









