近しいところに「4回見た!」と言っている者がいたりして、
どうしよっかなぁと思っていた映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見て来たのでありますよ。

「どうしよっかなあ」と思ったという背景としましては、
「クイーン」というバンドも映画タイトルになった「ボヘミアン・ラプソディ」という曲も
もちろん知ってはいるものの、いわゆる「ロック」という音楽にさほど近づくことなく
過ごしてきた方であるものですから。(それでも、1976年1月、雑誌「FMfan」の表紙になった
アルバム「オペラ座の夜」のジャケットのことはよおく覚えておりますなあ)
とまれ、そんなどうしよっかなあ感覚のあるところ、背中を押すことになったのは
昨年末にNHKで放送された「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」なる番組。
元々は2002年に作られたようですが、映画人気に肖って再放送となったのでしょうか。
殺人事件といってもミステリー・ドラマではありませんで、
歌詞に「Mama, just killed a man」などとあるものですから
「いったい誰が誰を殺したの?なぜ?どうして?」みたいなところを探っていく。
つまりは「ボヘミアン・ラプソディ」の不思議な歌詞に迫ると同時に、
クイーンの、そしてフレディー・マーキュリーの謎に迫っていくてな内容なのでありました。
話の中では、シェイクスピア の「ハムレット」や「マクベス」などの影がちらちらするとか、
そうした深読みの数々が紹介されていて、それはそれで興味深いところであったかと。
そんなこともあって結局のところ、映画も見に行ってしまったわけでありますよ。
ですが、こと「ボヘミアン・ラプソディ」という曲に関して、番組の中では
当時のプロモーターが「なぜこの曲が売れたのか、今でもわからない」と言っていたり、
長すぎる、歌詞の意味が分からない、曲(の構成)がめちゃくちゃ…などなど否定的な評価が
あったことは映画の中でも多々エピソードの紹介がありましたですねえ。
で、ここから先はロックにあまり近寄ることなくここまで来た者の勝手な思いになりますが、
「ボヘミアン・ラプソディ」は初めて耳にしたときから「いい曲だなあ」と思ったのですよね。
発売当初でしたから、ラジオで流れるのを何度となく耳にしておりまして。
先にも触れたように、この曲には「歌詞が分からん」とか「曲の構成が分からん」とかいう
感想がよく聞かれるわけながら、歌詞も曲の構成も、いずれもが「コラージュなのだなあ」と
思ったものですから、そうしたつもりで何ともすっと入ってきたのですなあ、個人的には。
美術作品だとより分かりやすいですが、コラージュはさまざまな素材を貼りあわせて、
一見ばらばらな印象の中に見る側が「何か」を見出すことになるといいましょうか。
そこには作者の意図はあったとしても、見る側の抱く印象はそこから自由であって構わない。
そして、そのことが「それじゃあいけん」と声高言われることはまずないものと思います。
先の番組では、結局のところ解釈は自由にてな話も出てきたですが、
それを耳にして「ああ、この曲はアートなのだあね」と思ったわけでありますよ。
少し硬い言葉?に置き換えれば「芸術」なのだねということもでもありましょうかね。
芸術といわれることがいいのかどうか、
いわゆるロック・ミュージシャンにとっての褒め言葉になるのかは分かりませんですが、
だいたいからして150トラックもあるという録音プロセスはもはやライブでの再現は不可能かと。
映画のラスト、ライブ・エイドでのパフォーマンスが示すように
ロックとライブとの関係は非常に大きなものであるわけですが、「ボヘミアン・ラプソディ」は
アルバムに収録された曲をライブで再現することのできない曲であるわけです。
その意味で「ボヘミアン・ラプソディ」はもはやテープミュージックであり、
実験音楽的とも言えましょうか。クラシックといわれる分野の前衛音楽では
ともすると聴き手を置き去りにしているような作品が作られたりしてきましたけれど、
それまで「これがロックだ」と思えるような曲を中心に聴いてきた方々の中には
聴き手置き去りの曲とも受け止められたかも。
その分、それまでのロックがどうかはともかくとして、
「ボヘミアン・ラプソディ」は幅広いリスナーを獲得することになったかもしれません。
こうした実験性といいますか、新機軸への取り組みようはビートルズにも感じられたところです。
と、ロックのなんたるかをよく知らない者が好き勝手に感じたところを披瀝してきましたですが、それだけ好きに語れる自由さを与えるのが「一見(一聴)したところの分からなさ」の正体かも。なんだか映画の話ではなくなってしまいましたけれど、あれこれ考える契機になったのですから
良い鑑賞体験が得られたことは間違いないと思っておりますよ。