ベルリンの壁メモリアル を覗いた後、
次の場所へと案内されるのに目の前を通るトラムに乗り込んだところで、
「次はどこへ?」と案内人に訪ねると「イーストサイドギャラリーへ」とのこと。


ベルリンの壁を利用したパブリックなアートギャラリーとして
「イーストサイドギャラリー」は有名ですから、確かにベルリンの名所と言えば名所ですな。
ブレジネフとホーネッカーが濃密接吻を交わしている絵あたりは目にされた方も
多かろうと思うところです。


ではありますが、ベルリンに来てほぼナチスと冷戦に絡む場所ばかりを訪ねていましたので、
そろそろ趣きの違うところに行ってもいい頃合いかと申し出た次第。
そこでリクエストしてみたのがベルリン郊外にあるヴァンゼーという湖なのでありますよ。

(ちなみに「ゼー」が湖の意です)


急な方向転換でしたので、トラムから列車をいくつか乗り換えて遠回りをしたですが、
1時間あまりの後、町中とはずいぶんと環境の異なるヴァンゼーへと到着したのでありました。


ヴァンゼー@ベルリン

東京での感覚から言えばせいぜい相模湖ということにでもなりましょうかね。

ですが、相模湖くらいな場所に別荘を構える方はそうはいないように思いますが、

こちらは別荘なのか、実際に住まっているのか、立派な屋敷が湖岸にはたくさんあるようで。


でもって、ここまでのベルリン歩きとは趣きの異なる訪問先はこちら、リーバーマン・ヴィラ。

画家のマックス・リーバーマンの邸宅なのでありました。


リーバーマン・ヴィラ

と、訪ねてびっくり、何とお休み?!

遠回り移動にかかる際には念のためガイドブックに当たってはおったですが、

閉館の看板まで出ているのでは致し方ありませんですね…。


せっかくヴァンゼーまで来たのに…と思ったところへ、かのベルリン在住案内人が

せっかくヴァンゼーまで来たのだからと、すぐ近くにある別の場所へと導いてくれました。

リーバーマン・ヴィラからほんの数軒先、たどり着いたのはこちらの屋敷でありました。



リーバーマン・ヴィラよりも豪壮な建築のこの建物、

もともと銀行家だかの別荘であったということですけれど、

看板にはかようなことが書かれてありまして…。



「この邸で1942年1月、悪名高いヴァンゼー会議が開催された」。

となれば、ここはナチ独裁によるユダヤ人虐殺が組織的対応でなされる調整を図った

ヴァンゼー会議の行われた場所であったのですなあ。

今はヴァンゼー会議記念館という資料館になっているようで。


結局のところ、風光明媚なヴァンゼーに来てまでナチス絡みの話に戻ってしまいましたが

とりあえずはヴァンゼー会議記念館の展示を見て回ることに。


と、これは帰ってきてから気が付いたのですけれど、

ヴァンゼー会議記念館の図録の日本語訳でありましょうか、

展示物の説明まで含めて詳しく載せてある本の存在に気が付いたのですね。


「資料を見て考えるホロコーストの歴史: ヴァンゼー会議とナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策」

横浜市立大学新叢書の一冊ですけれど、これを参考に展示を思い出しつつ

ヴァンゼー会議とホロコーストのことを少々振り返ってみたいと思うところです。



1942年1月に開催されたヴァンゼー会議。最初は前年12月に予定されていたのが、

日本の真珠湾攻撃でアメリカを巻き込む戦争になったことから延期されたそうですけれど、

この会議の前と後ではユダヤ人への迫害が凄惨さを格段に増したといいましょうか。


元来、ヒトラーはユダヤ人排斥を声高に唱えていたものの、

その方法に関しては決して組織だってはいなかったようでありますね。

ドイツからユダヤ人を排除する場合に「排除」の方法は何も虐殺ばかりではないわけで、

どちらかというと追い出すという方向が考えられていたところもあるような。


例えばマダガスカルという大きな島に

ユダヤ人を押し込めてしまおうてなことも考慮された形跡があるようで。

ですが、さしあたりユダヤ人をドイツから東方(ポーランド方向)へ追い出したものの、

1939年のポーランド侵攻によって追い出しエリアを自らの占領地域にしてしまった。

さらに追い出さねばといって、ドイツにいたユダヤ人にポーランドにいたユダヤ人もいるわけで

数が増えてしまい、対処が難しくなってしまったわけです。


一方で戦争が進んでいく中、軍需工場での労働などにユダヤ人を使うようになると、

ある意味、必要不可欠な労働力ともなって追い出すことも(まして虐殺することも)出来にくい。

ところが強制労働があまりに過酷なために労働に耐えない人たちが出てくると、

思いあまって虐殺という方向に向かうことにもなってしまったような。


さらにドイツに負けが込んでくると労働力と見込んだユダヤ人の存在も

また面倒なものになってくる。結局のところ強制収容所ならぬ絶滅収容所が設けられ…と。


この流れは組織立って行われたわけですが、ヴァンゼー会議以前には

ポーランド占領地域のゲットーに対してユダヤ人を収容所に移送せよてな話が届くと、

現地の占領指揮官側では必要な労働力を渡すわけには行かないと反対意見が出されたり。


はたまたユダヤ人排斥というヒトラーのアジ演説をそのままに受け止めた部隊では

収容所に送る以前から広場に集めて銃殺をしてしまっていたりもしていたようで。

こうしたばらばらの対処をヴァンゼー会議ではナチス政権下の実務者トップ層が集まって

指揮命令系統の交通整理をし、粛々とホロコーストが進められていくということに。


会議を招集したのはラインハルト・ハイドリヒ、SS(親衛隊)のトップですな。

そして、議事録を残したのがアドルフ・アイヒマン、ゲシュタポのユダヤ人課長でありました。


1960年になってモサドに捕まり、イスラエルで裁判にかけられることになったアイヒマンが

その裁判の中で見せた無表情、あるいはむしろ戸惑ったような表情は

以前見た映画「アイヒマン・ショー」 の中のドキュメンタリーフィルムで見られますが、

ハンナ・アーレントが言った「思考停止の凡人」はアイヒマンはもとよりながら彼ひとりでなく、

この会議に出ていた人たちは皆そうだったのだろうと思うところです。


会議での扱われようはあたかも過剰な在庫を抱えてしまった会社が

その廃棄に携わる部署の実務者が集め、効率的に処分する分担を話しあっているかのよう。

そのように扱われようとしているのがヒトであるにも関わらず、粛々と命に服すのですから。


とまれ、かような会議がこの風光明媚なヴァンゼーの湖畔に佇む邸宅で行われたのですな。テラスに出て外を眺めやり、何か違った思いを抱く参加者はいなかったのでしょうか。

何やらちぐはぐした感じが残るところでありましたですよ。