地下ホームであるベルリン北駅 から地上へ出ると、
そこにはかつてベルリンの壁であったの敷地の幅がそのままに保存されているのですね。



ちょっとした緑道公園というには十分以上の幅がある。
つまり、ベルリンの壁とは一枚の塀がずっと続いているのではなくして、
帯状の緩衝地帯であったのですよね。



緑地帯の中に据え付けてあった俯瞰模型で見ると帯状であることが分かり易いと思います。
上下縦方向のラインで見ると、左側の壁が西ベルリンとの境界線でして、
壁を作ったのは東ドイツですから帯状部分を西側にはみ出せるわけにはいかず、
東ベルリン側にマチをとって緩衝地帯を設け、右手側にはもうひとつ壁があるという構造。



緩衝地帯には、横断する者を見張るための監視塔、さまざまな障害物があったようです。
ですが、ここでの看視はもっぱら東側によるもの。壁を作った側ですから当たり前ですが、
いったいそこまでして何を守ろうとしていたのであるかが問題になろうかと。


東ベルリンの住民に対して東ドイツとしては
この壁を「antifaschistischer Schutzwall」と言い聞かせていたのだとか。
「アンチファシスティッシャー・シュッツヴァル」、帝国主義ファシズムに対する防護壁。
つまりは西側から毒にしかならないような思想、人物その他の一切が流入しないため、
ひいては東ドイツ国民を守るための防壁であるというわけです。


さりながら、この壁を超える移動の企ては西から東へではなく東から西への流れであって、
現実には東ドイツから外(西側世界)へ自国民が出ていってしまわないようにするために
造られた壁だったのですよね。



やはり緑地帯にある展示として、たくさんの市民の顔写真が並んでいましたけれど、
いずれも壁を超えて西側へ行こうと試みるも命を落とした人たち。
看視に当たっていた警備兵は「逃すくらいなら射殺せよ」と言われていたようですし、
実際に逃亡を阻止した兵士には昇進なり報奨金なりが与えられたとも。


亡命を図って命を落とした人たちの個々のケースに関しては、この緑地帯の通りの向かい側、
「ベルリンの壁メモリアル(Gedenkstätte Berliner Mauer)」という資料館に
詳しい状況説明がありました。



ところで、「ベルリンの壁」といって1961年8月に最初に設けられた壁は
単に有刺鉄線が張られただけだったのですよね。
「自由への跳躍」として知られる有名な写真は、
ベルリンの壁が築かれて最初の亡命者をとらえていますけれど、
これをみても鉄条網があるだけということが分かります。


ですから、その後に時間を掛けてどんどんと緩衝地帯まで設けるという
大がかりな「ベルリンの壁」になっていったわけですが、
こうした事態に西側は抗議するとか何かしらのことはしなかったのかと思うと
いつの世も国際情勢は複雑怪奇と申しますか。


ベルリンの壁―ドイツ分断の歴史/エトガー ヴォルフルム

知ってるようで知らない「ベルリンの壁」のことをこの際きちんと把握しておこうと
「ベルリンの壁―ドイツ分断の歴史」を読んでみたところ、
西側諸国は「ベルリンの壁」が造られたことでホッとしたという側面もあるようなのですな。


第二次大戦の終結直後から世界は東西冷戦の構造へと移り変わっていったわけですが、
西側、東側が国境を接しているてなこと以上に、ベルリンの場合は町中に引かれた線が
冷戦の最前線になってしまったのですね。


先にチェックポイント・チャーリー のところでも見ましたように壁を挟んで東西の戦車が
対峙しあうなんつう局面もあったりしたわけで、いつ何が起こっても不思議でないという
一触即発ポイントがベルリンという大都市の真ん中を横断している恰好。


ですが、ここで何かことを構えてしまえば全面核戦争になったりする可能性は考えており、
それだけにこちらが手を出したくなくても相手方の挑発があれば、どうなるものか…という
懸念があった。それを「ベルリンの壁」は防ぐ一助となるのはないかと考えたようです。


大局的な考えとして無くはないのかもですが、ベルリン市民が置き去りにされていることには
目をつぶってしまっている。なんとなれば、ついこないだまでの戦争でさんざんドイツに
苦しめられた西側諸国としては、何もベルリンの、ドイツのために全面核戦争なんて
御免こうむりたいというのが本音にはあったようで。


ものごとを大局的に見るというマクロの視点は大事なことではありますけれど、
そのことによってひとりひとりの生きている人間が見えなくなってしまったのではありますまいか。
「ベルリンの壁」が保存される意味はそうしたところにもあるような気がしたものでありますよ。