読売日本交響楽団の演奏会を池袋の東京芸術劇場で聴いてきたのですね。

来年3月に常任指揮者の任期切れが迫るシルヴァン・カンブルランが振る

オール・チャイコフスキー・プログラムなのでありました。


読売日本交響楽団第210回土曜マチネーシリーズ@東京芸術劇場

幻想序曲「テンペスト」、ロココ風の主題による変奏曲、そして交響曲第4番と並べるのは

華が無いようで実は…といった、ある種、カンブルランらしいプログラミングでもありましょうか。

ロココでは出番の無い金管がいつになく腕まくりで臨める演奏会ではなかったかと。

取り分け交響曲第4番は爆裂系ですものね。


この曲を初めて耳にしたのはいつどこで…ということをはっきり覚えている曲というのも

そうそうあるものではないように思いますけれど、チャイコフスキー の交響曲第4番は

よく覚えておりますなあ(記憶が嘘をついていなければですが)。


かつてドイツ・グラモフォンが新譜の紹介のために

レコード・コンサートをやっていたことがあったのですね。

当然にして、インターネットを通じてサワリを聴いてもらうなんつうことのできない時代です。


事前申し込みの抽選でもあったでしょうか、出かけたのは2度ほど。

とまれ、そこで当時まだこれからを担う若手の代表格だったクラウディオ・アバドが

ウィーン・フィルを振ったチャイコフスキー、交響曲第4番の新譜が紹介されまして、

それがこの曲を初めて聴いた瞬間であったのでありますよ。


まず冒頭の金管ファンファーレに瞠目、そしてうねりのたくる厚い弦(と当時感じたもので)に

絡めとられ、最後の最後で冒頭のファンファーレに帰ってくるあたり、吹奏楽部員の心を

鷲づかみでありましたなあ。


ほどなく秋葉原の石丸電気(今は無くなってしまいましたが)のレコード売り場に出向いて、

レコードを購入いたしましたですよ。もっとも、未だ小遣いをもらっている状況下、

新譜は高くて買えないのでより廉価であったカラヤン、ベルリン・フィルのレコードを。


こうなると売上向上のための新譜紹介レコード・コンサートに行きながら

些かの貢献もしていないようですが、カラヤンのレコードもドイツ・グラモフォンでしたのでね。

まあ、勘弁してもらえるところではなかろうかと。


と、すっかり思い出話が長くなってしまいましたけれど、

今回の演奏も品は残しながら爆裂系の音楽を堪能するところでありましたよ。


こういう音楽は、取り分けライブであれば弥が上にも聴き手を高揚感の渦に巻き込む。

ですが、そういう面ではちとあざとさも無いわけではありませんですね。


ブラームスがチャイコフスキーの第5番を評価していなかったといったあたり、

以前にやはり読響がチャイ4を取り上げた演奏会 を聴いたおりにも触れたところながら、

5番ならずとも4番にしても作曲技法を駆使して曲を作り込むことよりも

聴き手受けを意識したふうにも思える点がブラームスには王道から外れると考えたところかも。


まあ、稀代のメロディーメーカーたるチャイコフスキーに嫉妬がなかったとは

言えないようにも思いますですが。


さりながら、あざとさといった部分を考えてみれば、

第3楽章におかれた弦のピチカートによるスケルツォなどは特に気になるところかと。


たまたまにもせよ、ロココ風の主題による変奏曲のソロを弾いたアンドレイ・イオニーツァが

アンコールで取り上げたツィンツァーゼ(グルジア、でなくてジョージアの作曲家とか)の

「チョングリ」は一曲まるまるチェロ・ソロのピチカートによる演奏だったりしてものですから、

どうしてもピチカート演奏に目が向くところとなったわけでして。


一般的にオーケストラを構成する弦楽器は擦弦楽器であって、

これを撥弦楽器的に用いることは特殊効果の部類に入るのではなかろうかと。

ベルリオーズが「幻想交響曲」で用いたコル・レーニョのように

音に何らかの描写性をもたせたいという効果を狙ったりするのに似て。


あるいはもっと単純に珍しさでもって聴き手の耳目を集める狙いとも。

ヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」のように。


チャイコフスキーがなぜここにピチカート楽章を持ってきたのかは不詳ながら、

爆裂系にばかり目(耳)を奪われるでなく、もそっと聴きこんでいけば

果たして作者の意図といったものを想像することができましょうかね。

もっともただただ爆演に身を委ねるのも心地よいことなのではありますけれど。