しばし「まつえ若武者隊 」のお相手を務めて中櫓から外へ出ますと、
向かい側のちと高くなったあたりにお城とは必ずしも釣り合いのよろしくなさそうな
洋風建築の建物が見えたものですから、立ち寄ってみることに。


興雲閣@松江城二之丸


明治36年(1903年)に竣工したこの建物は当初、松江市の工芸品陳列所と利用されましたが
それにしては造りが凝っているやに思えるのも無理のないところでして、
明治天皇の山陰巡幸に際して行在所とするのが本来の目的であったとか。


日露戦争に至る怪しい雲行きの中で明治天皇巡幸は実現しなかったものの、
後に皇太子(後の大正天皇)が宿舎としたりしたこともあって、
ちゃんとした名称が求められたか、かつての松江藩主によって「興雲閣」と名付けられたそうな。



2階にあがりますと、大広間に隣接して皇太子滞在時の御座所と御寝所が
貴顕室としては再現されておりましたよ。


貴顕室・御座所@松江興雲閣 貴顕室・御寝所@松江興雲閣

この頃は皇族の寝室も畳敷きだったのでしょうかね…ということはともかくとして、
なかなかに見目麗しいこの洋風建築のお隣にはやおら神社が建っているのですね。


松江神社

松江神社と言って松江松平家初代藩主直政を主祭神としていますが、
実は神社の話をしたいのではなくして、興雲閣と松江神社との間にある
この狭い通路にちと注目です。



先に現存天守が残るのは12の城だけという受け売り話をしましたけれど、、
そのうち国宝に指定されているのは松本城、犬山城、彦根城、姫路城、そして松江城の5つ。
といっても、松江城に関してはかつて国宝だったものが国宝の指定からはずされ、
近年になって国宝に再指定されたと話題になったのは記憶に新しいことかと。


松江城は慶長十六年(1611年)の築造と伝わり、
元はそれと想定させる「祈祷札」が城内に掛かっていたはずながら、
昭和の大修築の際に外されて行方知れずになってしまい、

古さの証しが立たなくなってしまったのですな。


これが国宝からはずされた理由のようで、当然にして関係者は大捜索するわけです

そして2015年、国宝の看板がはずれてから65年ぶりに国宝に返り咲いたのは、
興雲閣と松江神社の間の狭い通路の奥に見える蔵の中から「祈祷札」が発見されたからだそうで。


とはいえ「祈祷札」の再発見は2012年ですので国宝再指定まで3年掛かっていますね。
このあたりのことも「まつえ若武者隊」から教えてもらいましたですが、
確かに「祈祷札」は出てきたけれど、この松江城のものであると即座に断定できんという
疑義を呈した学者がおったのだそうですよ。

まあ、言われてみればそのとおりですなあ。


ほぼ間違いはなかろうと思うわけですが、その程度では証拠足りえないわけで。
ですが、このことに松江市民の(?)失望大なるものがあると知ったかの学者先生、
「祈祷札」に開いた釘穴とこれを取り付けたと思われる釘穴にぴたりと来る場所があることを
自ら発見して国宝再指定に道を付けてくれたのだとか。


ついでの話として、釘穴は発見したですが、松江城の国宝再指定を見届けることなく、
かの学者先生はお亡くなりになってしまったのだそうで…。


まあ、狭い通路の写真を引き合いに出したのはそういうことでありまして、
松江城内にあってあちこち寄り道をいたしましたが、いよいよ天守へと向かいます。