さて、たっぷりと小泉八雲記念館
を見て回った後にはお隣にある小泉八雲旧居へ。
八雲は「武家屋敷」に住まうのを念願としていたようで、
折しも持ち主が簸川郡(今の出雲市)の郡長として赴任して空いていたこの家を
借り受けることができたようでありますよ。
佇まいはほぼ当時のままなのでしょうか、
小泉八雲が書いた「この家のたたずまい」という文章から入口のようすをちと引いてみます。
…お寺の入口にあるのと殆ど同じ大きさの門口へ、低い幅広い石段で昇って行く。その門の右手に、壁から突き出て、太い棧のある、大きな木造の籠のような見張窓がある。封建時代には、そこから、武装した家来が前を通る総ての人に(棧は密に設けてあって、その後ろにいる人の顔は、道路からは見えぬのだから、目に見えぬ見張を)厳しい見張を、いつもしていたものである。門の内側の、住所へ行くまでの処にもまた両側に壁があるから、客は、許可を得なければ、何時も白い障子が締まっている家の入口を己が前に見得るだけである。
入口の写真に見える門をくぐった先の描写ですけれど、
太い桟のある見張窓と言われればそれらしいのが右手(下の写真)にありますなあ。
こうした造りのあちこちにも八雲は「日本」を見ていたのでありましょうかね。
ところで、この国指定史跡ともなっている八雲の旧居ですけれど、
歴史的に古かったり重要だったりするものほど中には入れずに
外から中を眺めやるという場合が多いものの、ここでは逆に中には入れはするも
庭に下りてはいけんということになっておるのですなあ。
南、西、北と家の三方を囲んでどの部屋からの眺めわたせる庭、
何より八雲がその眺めを愛した庭を部屋から堪能してくださいとの考えから、
このようなことになっているようでありますよ。
松江へ赴任して最初の正月には紋付を着て挨拶回りをしたという八雲は、
日本文化に相当の興味があったわけで、それだけに住まいも純和風の武家屋敷を所望。
ですが、それでも書き物は椅子に座って机でやったのですな。
それにしても椅子に対して机の高さの高いこと。八雲は若くして
左目を失明(なので、いつも左目が見えないよう右側からの写真ばかり)していた上に
右目の視力も弱かったようで、こんなにも机を高くして目を近づけて書き物をしたのですなあ。
ちなみに机の置かれた書斎の奥に見えているひと間がセツ夫人の部屋であったそうな。
ところで(繰り返しになりますが)八雲が松江に住まったのは約5カ月と決して長くはないながら、
お隣の記念館の前庭にはこのような塚があったのですね。
「遺髪塔」とあってここには小泉八雲の遺髪が納められているそうな。
八雲の子息が亡くなった際に発見された遺髪が遺族の手によって
松江にもたらされたのだということですが、やはり過ごした時間の長さばかりでなく、
八雲と松江の繋がりは深いということでありましょうね。






