ジェット旅客機の飛行高度は地上から1万メートルくらいの上空でしょうか。
空を見上げると、大きな飛行機が小さな姿で横切っていくのに出くわすことがあります。
飛行機は地面を離れて空を飛んでいるからかような高みにまで到達できるのだとは思うも、
同じ地面とはいえ、一般に人が生活している高さとは違って、
むしろ海面よりも飛行機の高さの方が近い地面があるのですよねえ。
ヒマラヤ、とりわけエベレスト は8848mもあるわけですから。
古今東西を問わずといいますか、神さま的な存在は天上にありということで
空の遥か彼方、どのくらい先なのかはともかくも高みにおわすと考えられておりましたな。
そこに少しでも近づきたいという野心が人間に生まれ、
「バベルの塔」 などという建築物を作り始めてしまったりもするわけですが、
神はその試みを良しとはせずに人々の言葉を乱して、いわば妨害するという。
要するに、神の高みにはおいそれと近づいてくれるなということでもありましょうか。
「バベルの塔」の物語が生まれた時代はもとより、今に至る人工的な建造物は
自然の造形として高みに聳える山の高みに到達できるものはありませんですね。
それだけにエベレストくらいの高さになりますと、人の手の及ばぬ神の台座くらいの位置に
受け止められたとしても無理ないことではありましょう。
ですが、神にもっとも近い場所と人が考えてしまうような、
そんなエベレストに人は果敢に、そして不遜にも登頂を試みるのですよね。
しかし、1953年にエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが初登頂を果たすまで
エベレストは人が頂上に近づくのを拒み続けていましたな。
近頃ではいささか神も鷹揚になったのか、
ネパール側から南東稜ルートを通っての登頂は団体ツアーが組まれるほどになってますが、
そのくらいのところは大目に見てやろうということでしょうか。
とはいえ、中国の紫禁城では宮殿正面に向かってまっすぐに延びる直線ルートは
皇帝以外の誰も近寄ってはならないとされていたのと同じように、
どんなにエベレストに登る人が増えてもこの道だけは神のものだけんねというのが
あるのですなあ。南西壁を攀じるルートです。
そんな人を寄せ付けないエベレストの南西壁に
冬季無酸素単独で挑む天才(それだけにエキセントリックな)クライマーの姿を描いたのが
映画「エヴェレスト 神々の山嶺」なのでありました。
キャンプに停滞することしばし、登頂開始に向けて天候回復を待っていますと、
あたかも「今こそチャンス」と誘いかけるようなようすを見せるエベレスト。
ところが、登り攀じり厳しくなってきたころを見計らったように天候は急変するさまは
「神の怒りをかった」といった形容が実にぴったりするように思われるところかと。
映画のストーリーは語らずにおくとして、山というか、自然に対して人が畏怖を抱き、
何らか災いや時に恩恵をもたらすとして、それを神の手のなせる技と考えるのが
人には腑に落ちやすいことだったのでしょうなあ。
また、猛吹雪に巻かれながらも「きっと登れる」という意識が嵩じていくさまは
「クライマーズ・ハイ」とも呼ばれる状況でしょうけれど、こうした心理状態も
「神に魅入られてしまった」てな具合に考えたくなるところかと。
昔々の人たちにとって「万物は神の被造物」と考えれば整理がつきやすいことから、
神という概念を人間が造り出したのもむべなるかなと思うエベレストなのでありました。