横浜へはアンサンブル山手バロッコの演奏会 を聴き行ったわけですけれど、
ともすると乗り換えの都合なんかで2時間くらい掛ってしまうところなだけに
せっかく出向くとなると、何か余禄が欲しいと考えるのが人情かと。
さりながら、時間が掛るという億劫感は自宅を出るのにもたつく元にもなり、
結果として関内あたりをぶらつくのが精いっぱいの時間になってしまったのですな。
とはいえここは前向きに考えてみることにしたのでありまして、
かつて築地居留地だった辺り をぶらぶらした折に、
そこここで歴史を語る碑や解説板に遭遇した経験から
当然に横浜も同様であろうと想像して、ぶらりに臨むことにしたという。
といって、時間が潤沢にあるわけではありませんので、
関内駅を起点に上のように赤枠で囲った範囲内をぶらぶらして何か見つかるであろうかと。
実際には、何か見つかるであろうかどころか、ざっくざくの状態だったのでして、
そのあたりを右往左往した順にご披露申し上げようという目論みでございます。
まずはこの書かれた文字が暗くて見えない碑です。
関内駅前に何か石碑があることは前から気付いていたですが、
駅の利用者が誰も足を止めることのないこの碑には「港町魚市場跡」とありました。
今では碑の後ろには横浜市役所が建っているこの場所に魚市場があってようで。
明治4年(1871年)、当時神奈川県令であった陸奥宗光に高島嘉右衛門に市場開設を許可。
(この高島という人の名は、横浜の高島町と高島易断に残ってますな)
3年後の明治7年(1874年)、開港で整備された町であることから港町と呼ばれたこの場所に
高島が開設した市場は、昭和6年(1931年)、横浜駅の東方に新市場ができるまで
使われていたようなのですが…次に見たものと整合しないような。
これは、横浜市役所をみなと大通りの方に折れてすぐのところに現れます。
パッと見では先ほど碑よりさらに存在感をアピールしてませんので、
解説板に目を止める人はなおさらいないですが、「二代目横浜市庁舎基礎遺構」とあります。
2013年の周辺緑化工事の際に発見された二代目市庁舎の基礎遺構とのことですが、
その市庁舎の竣工は明治44年(1911年)であったと記されておりました。
先の石碑を見たときには1931年までここに魚市場があったように受け止めたのですが、
果たして…。
それにしても、往時はこのような建物であったそうですから、
残っていればに立派なランドマークのひとつとなっていたでしょうけれど、
残念ながら関東大震災で失われてしまったとのことでありますよ。
と、最初にいろいろなものがざっくざく見られたと言いましたのに、
まだ出したばかりのところですでに長くなってます。
まあ、横浜にはこんなあれやこれやがあるんだということで、
この後もしばらくお付き合い願えれば幸いです。
そうそう、路上で見かけたこんなものも横浜をアピールしておりますなあ。