さて、横浜美術館のコレクション展、

「全部みせます!シュールな作品 シュルレアリスムの美術と写真」 を見たことで

シュルレアリスムのことをあれこれ考えたというお話の続きであります。


展示にあたって横浜美術館では「シュルレアリスムに親しむ11の標語」を提示してましたですが、

最初のひとつが「上手である必要はない」というものでありました。

続く二つめの標語というのが「手さぐりの風景」と。


「成り行き任せに暗闇を手さぐりして得られた信号を解読してできた風景」が表現されていると、

まあそのようなことですけれど、ここでまた思いますのは、

作者が手さぐりで探し当てた信号を解読して作品化したものに対して

今度は見る者が見る側なりにデコードしなくてはならない(あるいは、デコードしてよい)のでは

ということなのでありますよ。


ルネ・マグリット「青春の泉」


で、デコードの方法もそれぞれに委ねられてよいと思いますけれど、

例えばこのルネ・マグリット「青春の泉」という油彩では、

作品が示す見た目の解釈を考えるということもあるものの、

「ああ、これはコラージュなのだな」という一閃もまたありだろうなあと思ったり。


画面のようなデペイズマンはマグリットの十八番でもあるわけですが、

いくつか配置されたものを合理的に結び付けられる解釈にたどりつこうと

呻吟することももちろん「あり」である一方で、もそっと気楽に

「(油彩で描かれてはいるものの)コラージュなのね」と見た目のそのままに

妙味を見出すのもまたあってよいというわけでして。


ちなみに画面の真ん中、鳥の頭が据えられた岩に「ROSEAU」と刻まれています。

フランス語で「葦」のことのようですが、この言葉には弱いもの、脆いものという意味もあるとか。

こんな言葉が岩に刻まれているあたりもまた、マグリットらしいところですなあ。


ところで3番目の標語は「その風景は、見つかることもある」というもの。

二つめが手さぐりで探し当てる風景だったのに対して、

今度は偶然に「風景」を見つけてしまうということのようです。

「見慣れたはずの街並みが初めて目にするような不思議な輝きを放っていた…」というような。


ジョアン・ミロ「岩壁の軌跡」シリーズより


これは「岩壁の軌跡」として6枚展示されていたジョアン・ミロの作品。

前回の最初に会場での解説を引用しましたように「シュルレアリスムは抽象ではない」とすると

ミロの作品は(ものにもよりますが)「では、具象なの?」と思ったりもする。

ですが、シュルレアリスムのありようにひとつである「オートマティスム」を思い出すときに

もしかしてということになるかもしれませんですね。


ところで、(鎌倉あたりならあるかもしれませんけれど)岩の切通しの道を

普段何気なく通り過ぎているとして、たまたまあるとき岩肌に目を向けてみたとしますね。

そうすると、あるところに規則性がありそうな、またあるところには不規則な亀裂が

たくさん刻まれていることを発見する。改めてじいっとみると何やらの形を成してくるような…。


例えばこうした気付きが偶然見つけてしまった風景ということにもなるのでしょう。

ミロの作品も単純にパッと見ると「抽象画だね」としてしまいそうですけれど、

タイトルに従って岩壁なのだと思ってみれば、見る側の受け止め方も変わってきそうです。


4番目の標語は「探していたのは、これだった」。やはり3番目の延長といえましょうか。

そこにある風景というでなく、ただあるものそれだけで、あるいはそれらを組み合わせてみれば、

はたまた偶然にも組み合わさったように見えたものから、

新しい受け止め方が発見できるといったことかも。

もっとも顕著な例はマルセル・デュシャンの「泉」かもしれませんね。


マン・レイ「小石」


こちらはマン・レイの写真作品、タイトルは「小石」です。

それこそ小石なぞはそこらに転がっている。

もしかすると、それをそのままに写し取ったものかもしれませんし、

作者がこの配置を作り出したのかもしれません。


ですが、そこには特殊なタイトル付けもなく小石は小石ですので、

デュシャンの「泉」のような目からウロコ的なものではないにせよ、

実質的にただの小石が折り重なったというだけではない印象がありますよね。

上手い言葉が見つかりませんが、アートになっていると言ったらいいでしょうか。

マン・レイはこれらの小石に出くわしたとき、「そうそう、お前らを探していたんだよ」と

思ったかもしれません。


…と、標語の四つめまで来ましたが、

もそっとシュルレアリスム展のことを続けたいところです。

次からは飛ばしてまいりますので、どうぞご容赦のほどを。


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