先日、耳にした何気ない言葉からつらつらと考えたりしたのでありました。
出勤途上のことでしたが、坂道を登りながら考えた…といったら「草枕」まがいですけれど、
こちらが登り坂にさしかった向こうから、小学生くらいの子供が駆け下りてきて、
すぐ後ろから自転車に乗ったお母さんが「転ばないようにね、転ばないようにね」と繰り返し。
ここでふと頭に浮かんだのが「転ばないようにね」とは無理のあるもの言いなのでは…ということ。先の状況下で文字通りに転ばないようにするには、止まるか速度を落とすかしかないわけで、
坂道を駆け下りる子供はどんどん加速度が付いているときに「転ばないように」何かしら配慮する、策を講じることは無理とも思え、結果的に転ばずに済んだら、それこそ結果オーライでもあらんかと。
ここでは言葉遣いの揚げ足取りをするのが本意ではありませんので、
この親子のことはこれ以上詮索しませんけれど、考えてみると「転ぶ」という語の不思議さに
思い当たるといいますか。
「転ぶ」という語の用例としていちばん単純なものは「私は転ぶ」というのが浮かびますけれど、
意味合いとしてこの用例は妙ではありませんでしょうか。
「転ぶ」の含むところは倒れて痛い目に遭う(痛さの軽重に関わらず)ような、
いわばネガティブな意味合いがありましょうから、基本的に自ら率先して「転ぶ」ことは
まずないものと思います。
何らかの結果として「私は転んだ」、
あるいは何らかの作用が予想されるために「私は転ぶだろう」とは言えても、
「私は転ぶ」と使うことはまずない。いちばん単純に思い浮かぶ用例なのにです。
結局のところ「転ぶ」という語は何らかの影響によって「転ばされる」ことなのでありましょう。
ここまでくれば「驚く」という日本語が、英語では「be surprised」(驚かされる)となっているが
ひどく理にかなっている気がしてくるものです。
「転ぶ」同様に「驚く」も実態としては何らかの影響、作用によって「驚かされる」わけですから。
さりながら「転ぶ」の英語はといえば「fall down」となってしまうのですな。
ですので、日本語の「転ぶ」に関して先にああだこうだ言ったことと
同じような疑義が生じることになってくるのですね。
しかし(と、その疑義の答えになるものかどうかは分かりませんが)
日本語の「転ぶ」という語に対して英語圏の人が受け止めた印象に
彼我の違いの一端が表れているようにも思えたりするのでありますよ。
今年、2017年初めに公開されたマーティン・スコセッシ監督作品「沈黙 -サイレンス-」。
遠藤周作 の小説「沈黙」の映画化であることは言わでもがなですけれど、
その映画の制作に携わった誰か(監督自身ではなかった気がします)の言として、
「転ぶ」(この場合には間違いようもなく、「転びキリシタン」の行為に限定的な用例ですが)には
「やがて再び立ち上がる」という前向きな含意があり、単に「棄教」の言い換えではないてなことが
聞かれたのでして。
これを聞いたときには「そんなふうな含意があろうか?(否、無い!という反語です)」と
思ったものですが、もしかすると英語の方のニュアンスでは「転ぶ」ことにいささかなりとも
(立つんだ、ジョー的な)ポジティブさがあるとするならば、それこそ「転ぶ」ことが積極性というか、
自発性を伴う可能性があるのかもしれん…と、今になって思ったりしたという。
というところで職場に到達し、ひとときの頭の体操(?)はふいに途切れるのでありました。