耶馬渓の「青の洞門 」からは一気に中津城下へと歩を進めたのでありまして。
と、ここで単に中津というでなしに中津城下と申しますのは、
やはりここが黒田官兵衛 ゆかりの城下町であるからですなあ。
天正十五年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉は黒田官兵衛孝高に功ありとして
豊前六郡十二万石を与えられ、領地のほぼ中央に位置する中津に城を築くことに。
それがこの中津城ですけれど、残念ながらといっては差しさわりもありましょうが、
現在の城内は旧中津藩主・奥平家に関する資料館になっておるのですなあ。
昭和39年(1964年)に城の天守が再築される際に奥平家の援助があったといいますし、
また八代将軍吉宗の時代に中津に入った奥平家はその後明治に至るまで
長く藩主であったとなれば、その歴史を城に展示するのもむべなるかなと。
官兵衛が中津にいた期間はそれとは比べものにならないくらい短いのですものね。
ですが、地元の人にとってどうかはわかりませんけれど、
長らく領主であった家をよそに今でも大きなインパクトを持つ人物の存在はそこここあるもので、例えば甲斐の武田信玄、熊本の加藤清正あたりはいい例であろうかと。
2014年に「軍師官兵衛」が大河ドラマで放送されたり、黒田官兵衛もまた知名度全国区。
お城は奥平家に譲るとして、お城の手前(上の写真では右側の建物)が
「黒田官兵衛資料館」になっているのでありますよ。
まあ、中津城の築城を始めたのは黒田官兵衛ですしね。
城の特徴のひとつは濠にあるようです。
もはや海も間近の中津川河口にあって、その水を濠に利用している。
ということはほぼ海水を引き込んでいるのと同じことになりますですね。
そうしたところから、「日本三大水城」(という括り方があるのですな…)のひとつとされるそうな。
中津城のほかは、いずれも四国で高松城と今治城だそうです。
で、この中津の城を本拠にして、
天下分け目の関ヶ原を尻目に黒田官兵衛は大ばくちに出るのですな(という説もあるということで)。
本州の真ん中で東西の大軍がにらみ合うのをよそに九州全体を平らげ始めるという。
前にも引用しましたけれど、その昔、海援隊(武田鉄矢がいたバンド)が歌った「二流の人」の
歌詞にありますように、「せめてひと月関ヶ原続いておれば博多から大阪、京まで攻め込」む
つもりだったのかもしれません。
軍師として陰に身を置いてきた人物が日向を目指したのでありましょうか。
結果としてはあまりにあっさり関ヶ原の片がついてしまったので、
官兵衛の野望は露と消えるわけですが、こうしたドラマ性をはらんでいるからこそ
語り継がれる存在なのでしょうね。
と、この日も外が異常なほどに暑かったもので、
官兵衛資料館の中でかき氷が食せるとしったときには飛び付いてしまいました。
ふたつ一気に!でなくして友人とひとつずつですが、いやあ、生き返る心地ぞする瞬間。
その一方で気が緩んだところもあり、城を目の前にしながらすでに天守へあがろうという気も失せて…。
機会があれば、また今度、奥平家の史料をたっぷりと拝見することにいたしましょう。
とにもかくにも、黒田官兵衛ゆかりの中津城なのでありました。