風情ある街並が残って歴史を感じさせる佐原 ですけれど、
おそらく全国区の知名度を誇る佐原ゆかりの歴史上の人物とは伊能忠敬 ではなかろうかと。
町を貫く小野川と香取街道が交わる橋は「忠敬橋」と名付けられて、

こんなオブジェも乗っているのですよ。


佐原の忠敬橋


これは「象限儀(しょうげんぎ)」といって星の高度を観測するための測量器具であるとか。
忠敬が日本じゅうを測量して回る際にも持って歩き、緯度を導くのにこれの計測値を使ったそうな。
そうした成果として出来上がった「日本全図」は現代の技術で作り上げた地図と比べても
驚くばかりの精度でもあるですなあ。


伊能図より四国部分@国立歴史民俗博物館


こたびの行きがけに立ち寄った国立歴史民俗博物館@佐倉 にも伊能図関連の展示があって、

この四国の図面などを見ても海岸線を歩いて測って、こんなに精細な海岸線が描けるのか…と

感心しきり。大した人物でありますなあ。


伊能忠敬像@佐原公園


そうした人物ゆかりの地なれば当然に銅像があったりもしますけれど、
先ほどから「ゆかり」と言っておりますのは、

いかんせん佐原は忠敬の生まれ故郷ではないのでして。


延享二年(1745年)、忠敬は

今の千葉県山武郡九十九里町と言いますから海沿いの村で生まれたのですな。
それが17歳のときに佐原で酒造業などを営む伊能家の婿養子となり、

その後は家業を盛り立てること一筋で伊能家のために尽してきたのだそうですよ。


今ほどに寿命の長くない時代だけに50歳で隠居するんですが、
余生は思う存分好きなことをと考えるのは今も昔もとは思うところながら、
忠敬のやりたかったのは何と学問。それも天文学に大変な興味を抱いて、
その最先端の教えを乞うにはやはり江戸に出なくてはと考えるわけです。


幸い家業に精を出してきただけあって、身代は大きくなり

金には不自由しないことから五十にしてひとり江戸に旅立ったという。

この初めの一歩がやがて日本じゅうを歩き回ることに繋がるとは
忠敬自身、想像もしていなかったでしょうなあ。


国指定史跡「伊能忠敬旧宅」


と、その忠敬が盛り立てた伊能家の屋敷が小野川沿いに

国指定史跡「伊能忠敬旧宅」として残されているのでありますよ。


伊能家の帳場


江戸期の当時に比べて今に残る家の規模は縮小されたということですが、
店舗、炊事場、書院、土蔵と見て廻ると大きな商売をやっていただろうなと偲ばれるところです。


伊能家の敷地を用水路が流れる


そんな伊能家の敷地内には用水路が流れています。

村の灌漑用水だそうですが、大事な水の通り道が伊能家の敷地内にあるとは

偶然なのか、実力者だからかは分かりませんけれど、大したものだの傍証かなとも。


ちなみにこの用水はそのまま小野川方向に進み…ということは、

それ以上先へ水を供給できない?いえいけ、違うんですなあ。

小野川を「樋橋(とよはし)」と呼ばれる水道橋で越えて水路は続くのでありますよ。


灌漑用水を渡す樋橋、通称「ジャージャー橋」

水量の調整でしょうか、川の上を通過する際にじゃーじゃー水が流れ落ちるため

地元では「ジャージャー橋」と呼ばれて親しまれているそうな。


と、伊能家旧宅からこの橋を渡ってまっすぐ路地を進みますと、伊能忠敬記念館に到着。

結構新しい施設のようで、見やすい展示で忠敬の生涯を辿れるようになってます。

 写真は不可だったものですから、ようすはお伝えできませんが。


しかしまあ、五十にして江戸に出た忠敬が全国測量に向かうのが56歳ということで。

当時としての年寄感は今より格段であったと想像しますが、

その足取りは確固たるものだったようで。


伊能忠敬の歩幅@国立歴史民俗博物館

これまた佐倉の歴史民俗博物館の展示(?)からになりますけれど、

(まあ実際の足型が取られているはずはないにせよ)

約69cmだったとされる歩幅で着実に一歩一歩しっかりと進んでいったことが

思い浮かぶようでありましたよ。


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