まず目指すべきは銚子、犬吠埼のはずが、

東関東自動車道を四街道ICでいったん降りて寄り道。

同行者の中からリクエストの出た立ち寄り地点は佐倉にある国立歴史民俗博物館でありました。


佐倉は長らく堀田氏が藩主を務めた城下町であって、

個人的にも「一度は行かねば」とは思ってはいたところながら、

このときはかなりピンポイントに国立歴史民俗博物館狙いで他はともかく…てな感じ。

まあ、銚子までのロングドライブを考えれば、途中休憩てなところでもありましょうけれど。


国立歴史民俗博物館@佐倉


とまれ、行き掛けの駄賃とばかりにやってきた国立歴史民俗博物館ですけれど、
出発がゆっくりめだったこともあって、既に時間はちと早めながら昼飯の頃合い。
博物館併設のレストランでこちらをいただきました。


古代米カツカレー@国立歴史民俗博物館レストラン


毎度垂涎ものには見えないながら「古代米カツカレー」という一品。
何より注目するところはご飯の部分でして、

古代米と言われれば何とも歴史の博物館とも馴染むと言いましょうか。


実際、群馬県立歴史博物館 を訪ねた折にも食堂メニューに古代米カレーがあって、
勢い込んで頼んでみれば無情にも「本日は終わりました」的な応答が帰ってきてしまい…。
ですので、その雪辱とばかりにオーダーしてみたという次第ですけれど、
ま、一度食せばそれで良しということで。


てなところで館内に入り込むわけですが、

これがさすがに国立の博物館だけあって広いですなあ。

展示室が6つあり、そのうちに一つが「民俗」がらみであるほか
5つの展示室が古代から現代までを区分けしてあれこれ展示してあるという。


地域ごとに郷土史に根ざした展示のある博物館はよく見かけますけれど、
これが「日本」という括りになりますと、いささか様子が変わってきますね。


こういっては何ですが、広いとはいえ、それでも雑駁な感じがしてきてしまいますし、
例えば郷土のヒーロー的な戦国武将を取り上げたりするわけではありませんから、
何とも淡々としている。お国自慢ができないのですなあ。


と、またしてものっけから腐しているやにも窺えるふうになってきたところで、
少々展示物に目を向けておこうかと(多くの展示の中から散漫なピックアップですが)。


平安京の地勢ジオラマ


藪から棒ながら、分かる方には「ああ」とすぐ分かるものかと。

平安京、即ち京都の周辺地勢を示したジオラマですけれど、

京都に疎い者にとりましては「こういう地形であるか…」と見せられるにつけ、

「みやこ」というものも(後のお城ではありませんが)周りからの攻撃に対する防備を考えて

場所を選んでいたのかなと、改めて思うところでありますよ。


鎌倉の地勢ジオラマ


その点、こちらはもはや要塞と言っていいほどに周囲が山に覆われている。

こちらも想像は容易と思いますが、武士の都・鎌倉でありますね。

進入(侵入?)経路は狭い切通ばかりで、後の形とは違った意味での惣構えでもあろうかと。


ただ、如何せん、都市の拡張には非常に限界があることからすれば、

鎌倉が担うのはもっぱら政治に限ると考えていたのかどうか。


政権が安定すれば自然に首都に人口流入することになりましょうけれど、

鎌倉が手狭になったから移転しようてな話にもなっていないのですなあ。



ところでこれは京の都の街の中。

「洛中洛外図屏風」などを元に再現した戦国末期の京の街並みということですが、

一見して、江戸の町割よりもゆったりしているなあと思いますですねえ。



一方、こちらはお江戸の街並み。手前の江戸橋から奥に日本橋を眺めるの図であります。

これを見るとお江戸も決してぎゅうぎゅうではないでないの…と思うところながら、

明暦の大火(1657年)に懲りた幕府が一部を立ち退かせて広くしたのであるとか。


江戸橋広小路と呼ばれた手前の橋のたもとはそうした場所のひとつでして、

今でも上野広小路てな呼び名は残っておりますなあ。


と、そんなこんなを挙げていっては切りがなくなるところですけれど、

幕末明治のコーナーで取り上げられていながら、初めてその名を知ったという人物に遭遇。

その名はジョセフ・ヒコという。


ジョゼフ=ヒコの紹介解説


ジョセフ・ヒコとは異な名前…と思うわけですが、

播州生まれの日本人で彦太郎(後に彦蔵)という人物なのですね。


江戸から播州に戻る船が暴風雨で漂流、アメリカ船に助けられてサンフランシスコに渡った…

となると、ジョン万次郎のようですけれど、こうした難に遭った人たちはたくさんいたのでしょう。


で、そのジョセフ・ヒコの事績やいかに?となるわけですが、
アメリカで教育を受けて帰国したのち「新聞の父」と言われるようになったのだとか。
その辺りを展示解説から引用してみるとしましょう。

…ヒコは、自らの漂流体験を日本語で出版し、さらに外国語新聞の記事を日本語に翻訳して「海外新聞」を発行した。これは横浜居留地で出された最初の日本語新聞であったため、ヒコは「新聞の父」と呼ばれている。

1870年には日本で最初の日刊紙とされる「横浜毎日新聞」の発刊が1870年(明治3年)で、
ジョセフ・ヒコによって「海外新聞」が出されたのは1864年、明治維新の前ですなあ。


探究せねばならんことはまだまだたくさんあるものだなぁ…てなことを考えながら、

国立歴史民俗博物館を後にしたのでありました。

佐倉で立ち寄りたいところは他にあれこれあれど、

銚子への道のりはまだまだ長いものですから。


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