「おや、観音山古墳 の後には近代美術館を覗くはずでは…」との突っ込みも無いでしょうけれど、
自転車でたどり着いたのは「群馬の森」という県立公園でありました。


県立公園 群馬の森


子供たちが駆け回るのにうってつけの場所でもあろうと思いますが、
この「群馬の森」の中に県立近代美術館があり、隣接して県立歴史博物館があるという。
ま、古墳を見てきた後だけに、まずは歴史博物館の方にというわけでありますよ。


群馬県立歴史博物館


展示室に入って早々で目にするのはさまざまな種類の埴輪なのですね。
しばらく休館していた歴史博物館は今年の7月にリニューアルオープンし、
新装なったスペースで東国古墳文化の展示をしているだそうです。




そこで解説されていたことには、
群馬県は古墳が何と!14,000基もあると言われるほどの古墳王国なのだと。
古く上毛野国と呼ばれた群馬の地は、近畿地方で多く発見される三角縁神獣鏡の出土が
東国では最も多いことが畿内の政権との繋がりを窺わせもするそうなのですね。


群馬の遺跡で出土した三角縁神獣鏡


実際、畿内の支配が日本列島の隅々にまで行き渡る過程では交通路も大事になりますが、
後に東山道となるルート上に現在の群馬県があるのがご覧いただけようかと。


古東山道ルート


ところでここでの展示で「ほう、そうだったの?」と思いましたのは、
おそらくは新聞紙上を賑わしたであろうに知らなかった金井東裏遺跡の発掘のお話。


「日本のポンペイ 」とは先に使用例があるようですが、やはりそう呼びたくなってしまうのは
6世紀に起こった榛名山 噴火による火砕流に飲み込まれた思しき人骨が見つかったからですね。
しかも甲(よろい)の着たままの状態であったと言いますから、
それこそあっという間の出来ごとだったのでありましょう。


「甲を着た古墳人」の甲を開いて見たところのレプリカ


2012年に発掘されて「甲を着た古墳人」と話題をさらったようですが、
さらに凄いのはその後の分析ではなかろうかと。そんなことまで分かるのかということで。


まず、かの古墳人は40代の男性であって、身長は164cm程度…とは、
骨から分かるのかもですが、渡来人的な顔立ちだったというのですなあ。
曰く「顔が高く、目の穴が高く、鼻の幅は狭い」、いわゆる「平たい顔族」ではなかったのか…。


さらに「ストロンチウム同位体比分析」とやらを行うと幼年期に過ごした場所を想定できるそうで、
結果として発掘された遺跡周辺で育ったのではなく、可能性が高いのは長野県の伊那谷辺りとか。
やはり先ほど示した東山道ルートにける古来から通交が浮かんでくるように思われますね。


古墳人の集落はこんなふうで…


当時の集落はこんな感じだろうという再現模型で見れば何だかのんびりしたふうではあるも、
大きな古墳を、しかも正確に作り上げたり、はたまた遠い地域との交渉があったりと
かなり活動はダイナミックだったのだなと思えてきますなあ。


と、群馬県立歴史博物館には古代のみならず、
原始から中世、近世、近現代に至るまでの歴史をカバーした展示があるのですが、
じっくり見るにはそれこそ一日掛りになりましょうね。


差し当たり今回は古墳を訪ねた後でしたので、限定的に見てきましたけれど、
情報の少ない中世東国武士の展示あたりは気になっており、またの折にはそこを中心に。
てなことを目論みつつ、お隣の近代美術館へと向かったのでありました。


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