見始めてみるとようやくしにして面白さの分かって来た歌舞伎でありますが、

なかなかに見る側の経験と知識を選ぶものでもありますなあ。


映画館で上映される「月イチ歌舞伎」でも、例えば昨年11月に見た「三人吉三 」などは

比較的分かりやすい言葉での台詞回しの妙を楽しむことができますけれど、

義太夫狂言はかなり厳しいところもあるような。


折しも人間国宝・坂東玉三郎 の、得も言われぬ手指の動きなどを

映画ならではクローズアップで堪能せんと「阿古屋」を見に出かけたところ、

不用意に何らの予習もなしでしたので、最初のうちはとまどいしきりでありましたよ(笑)。


月イチ歌舞伎「阿古屋」

だいたい話の背景も何も知らず…で、

尾上菊之助 演ずるところの人物も「しげただ?」と最初は漢字さえ浮かんでこないありさま。


辛うじて「壇浦兜軍記」とあるのを見て源平の時代かと思い、

秩父がどうのと言っているあたりからして、

「お!畠山重忠か!」と途中でようやっと閃いた次第。

いやはやです。


が、そんなこんなの悪条件(極めて個人的にですが)もものかは、

結果的には面白く見ることができましたですよ。


玉三郎演じる遊女・阿古屋は平家残党の悪七兵衛景清の行方を知っていようと

源氏方に捕われて白状するよう迫られるのですな。


阿古屋のかたくなな知らぬ、存ぜぬに業を煮やした源氏方では、

拷問にかけるべしと岩永左衛門がいきり立つのをしり目に

その場を差配する秩父庄司重忠が命じたのは思いもよらぬことばかり。


「琴を弾いてみい」「三味線を弾いてみい」「胡弓を弾いてみい」と迫るところから、

「琴責(ことぜめ)」とも言われるのだそうでありますよ。これが拷問であると。


映画では、本筋の始まる前に「阿古屋」開演に至る以前の稽古やら楽屋裏のようすが、

玉三郎の語りとともに映し出されるのですけれど、そこで玉三郎の曰く、かの名跡を継いで早々、

琴、三味線、胡弓の稽古を始めたのもこのためだったか…という述懐があるように、

舞台では芝居を見せるだけでなく、三つの楽器を弾いて見せないとならないのですな、この演目は。


歌舞伎は伝承の芸で、この「阿古屋」も若い世代に引き継いでいかねばとは玉三郎の思いですが、

音曲の技までも舞台で示さねばならんとすると、大変な役作りなのでしょうなあ。

同じ舞台に乗っていた菊之助は女形もこなすだけに、間近で演ずる玉三郎を見て

「いつかは…」なんつうふうに思ったでありましょうか。


ところで…と、ここからは歌舞伎ビギナーが見て思ったことを勝手に披歴する部分になりますが、

ひとつには阿古屋に対する拷問を琴責というものにしたという点でしょうか。


強硬派の岩永に重忠は琴責の真意を語って、それはそれでなるほど的な話ではあるものの、

結局のところ、重忠は阿古屋の景清に対する愛情にほだされて助けてやったのではないですかね。


平家追討で西国へ赴くことになった重忠自身、

自分を慕う傾城・夙妻太夫(あさづまたゆう)と離ればなれになった挙句、

太夫は言い寄る男からふきこまれた重忠の討死を真に受けて身投げしてしまう…てな

伝説の持ち主でありますから。


また、舞台の工夫の点と言ったらいいのでしょうか、

中央に重忠、その下手側に阿古屋、そして上手側に岩永が配されていますけれど、

阿古屋と岩永の対置の妙というべきものがありますね。


阿古屋の流麗な、曲線的な立ち居ふるまいに対して、

岩永は単に武辺者であるばかりか、文楽の人形であるように設定されているものですから、

とにかく動きがカクカクとぎこちない。


時に笑いを誘う要素である一方で、女形を引き立てる役どころを突き詰めて

あんなふうになっておるのだなあと思ったですよ(と、ひとり合点しております)。


…というような勝手な想像を巡らせるには、あんまり予習をしない方がと思いますが、

はてどうしたものでありましょうかね…(笑)。


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