クラシック音楽が好きで、CDやレコードを自宅で聴くこともあるわけですが、

いつもいつも「ながら聴き」でおよそ音楽に没入することがないのですね。


いわゆる「生活雑音」というものがどうしたって飛び込んで来てしまうことに

若い頃は「イラッ!」としたこともあったですが、近所じゅうに「音出すな」とは言えませんから、

これはもはや諦めの境地でもあるわけで(本気の人は自宅に防音を施したりするのかも…)。


ですので、演奏会という場では自宅での「ながら聴き」とは異なる環境で音楽と向き合えると、

まま出かけていって音楽に没入する…かと思えば、必ずしもそうではないと言いますか。


会場での演奏から受ける印象、これはまさしく人それぞれでありましょうけれど、

毎回のように(叫ばなくとも心のうちで)「ブラボー」感を抱く方もいましょうし、

数々聴く中でたまぁに、ごくたまに出くわす高ぶりに今日はでくわすか、明日は出くわすかと

考えている向きもあるのではなかろうかと。


個人的には後者なわけですが、演奏を聴いてそのたまぁに出くわす高揚感的なものは

音楽への没入とセットのこともあれば、そうでないこともある。

そうでない場合というのは、音楽が、演奏が刺激になって

演奏聴きながらもあれこれ考えを巡らしたりすることでもあろうかと。


もちろん、巡らす考えが翌週の仕事のことだったり、家の片づけごとだったりするとすれば、

それは音楽に向き合えないときなのですけれど、そういうのではない思いと言いますか。


とまあ、つらつらの前置きは「いったいなんね?」ですけれど、

このほど読響の演奏会 で聴いたシューベルト の「ザ・グレート」と呼ばれる交響曲は、

聴きながら「この曲は…」と大いに考えを巡らせてしまう聴き方、

つまりは「うむ、えがった!」と高ぶりを伴う演奏であったとことにつながるのでありまして。


読売日本交響楽団第192回土曜マチネーシリーズ@東京芸術劇場


で、いったいどんな考えを巡らせていたかということなんですが、

ドイツ音楽の歴史の中で、「交響曲」なる作品の形が生き残れたのは

ひとえにこの曲のおかげなのではなかろうかということなのですなあ。

(当然にして勝手な想像ですので、そのように受け止めてくださいまし)


交響曲、シンフォニーという形は、以前からその祖形はあったものの、

ハイドン が形式を確立して、モーツァルト が発展させ、ベートーヴェン に受け継がれた。

ですが、形が確立されてからさほど長い年月を要さぬうちにベートーヴェンが作り上げた9曲は、

金字塔としてその後の作曲家に、交響曲の作曲に二の足を踏ませるようなものであったわけです。


交響曲という比較的新しい形式は作曲技法を究めるようなところもあったでしょうから、

多くの作曲家が試してみたいものの、「あれだけのものと作られちゃあな…」と

ベートーヴェンが恨めしく思われたりもしたのではないですかね。


今日から音楽史を振り返れば、ベートーヴェンの後にシューベルト、メンデルスゾーン、

シューマンブラームス と交響曲作家は途切れなく出ているように思われますけれど、

メンデルスゾーンは第1番は若書きの実験作、第5番は本人がスコアの出版を認めず、

第3番は1842年まで改訂を重ねたとされ、第4番もまた出版を拒んだといいます。


これは「交響曲」なるものの作曲にメンデルスゾーンが試行錯誤感をぬぐえなかったことを

思わせますですね。それだけやっぱり重く受け止めていたというか。


で、シューベルトの「ザ・グレート」ですけれど、シューマンに総譜が見いだされて

メンデルスゾーンの指揮で初演されたのが1840年。

今回の読響プログラム解説に「シューベルトの交響曲はいずれも

生前に公開演奏された記録がない」とあるように、

シューベルトの交響曲が広く知られるようになった初めてのことではなかったかと。


これを耳にした人たちは安心したんじゃないですかね、「交響曲はこれでいいんだ…」と。

ベートーヴェンの名残りのようなものはあるとしても、間違いなくベートーヴェンではない。

そして修行であるかのようなものではなくって(それがいけないのではありませんが)

「音楽が溢れた曲ではないか」ということで。


前にも書きましたけれど 、シューマンはこれを励みとして

交響曲の完成に向かっていったようなところがありますし(第1番の完成は1941年)、

メンデルスゾーンも第3番の改訂を1942年に終えているといったように。

(おそらく総譜出版をしてない曲の改訂もしたかったのでしょうけれど、死は待ってくれず)


ここのところの、メンデルスゾーン、シューマンによる交響曲作曲の継続性の橋渡しがあって

その後のロマン派交響曲があるやに思えば、シューベルトの果たした役割は大きいなあと

その名が「ザ・グレート」というばかりでない大きさを思ったりしたものです。


こうした思い巡らしはこの時のカンブルランが引き出した演奏の賜物とも。

一般にローで発進、途中からシフトアップする曲と思ってましたが、

のっけから2速ですいーっと滑り出した感じに「お!」と思って以降、

長い全曲、弛むところなく聴きとおすことができたものでしたから。


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