ここまで高崎のあちらこちらを巡ってきましたですが、
ようやっと今回の高崎行き最大の目的地に到達したのでありまして。


高崎市美術館 のある西口とは反対側の高崎駅東口、
その真向かいにあってペデストリアンデッキを伝ってそのまま行ける高崎市タワー美術館で
伊東深水 作品を集めた展覧会を見るというのが、その目的なのでありました。


伊東深水展@高崎市タワー美術館


たまたまにもせよ、今年の初めに深川七福神 を巡って歩いた折に

伊東深水誕生の地に通りすがり、程なくして高崎で伊東深水展があると知ったものですから、

これも縁と機会を窺っていたわけで、それが成就したという次第。

七福神の功徳でもありましょうか(笑)。


それはともかく伊東深水(1898-1972)ですけれど、
10歳で働きに出た印刷工場で画才を認められ、13歳のときに鏑木清方に入門。
雅号は清方が付けたもので、深川の「深」に清方の「清」にあるさんずいを「水」と見て「深水」と。


清方は小学校を中退していた少年の深水に対して「絵は頭で描く」と言い、
月謝を免じて夜学に通うことを勧めたそうな。


この恩に応えて、昼間は仕事、夕方から夜学と勉強、
絵を描くのは夜中から明け方という頑張り屋の一面を見せる深水には、
清方も目をかけていたということでありましょうね。


才能と努力の甲斐あってか16歳で院展に、17歳で文展に入選という鮮烈デビューを飾りますが、
師匠の清方に「おめえんとこの若えのだが、ずいぶんと天狗になっているようじゃあねえか」的な
たしなめのひと言を呈したのが川合玉堂で、清方も深水に自重を促したのでしょうかね…。


一転してしばらく息を潜めるように静かになった深水でしたが、
先達のひと言で消沈するというよりは雌伏の時期と見てとったか、じっくりと熟成を待つような。
先の文展入選から7年後、大正11年(1922年)の平和記念東京博覧会で二等銀牌を獲得して
再び大注目を浴びるようになった、その作品というのが「指」でありました。


上のフライヤーにありますとおり、切手にもなっていてかなり見慣れた図柄であるわけですが、
どうやら印刷で見るものと肉筆画とは全く違うものなのですなあ。


実際に目の前にしても何が違うのかをうまく語れませんけれど、解説の言葉を借りれば
「生身の女性の現実的な肉感表現に見事な筆の冴えを見せている」ということであると。


「現実的な肉感表現」とはいえ、いささかの露骨さも、ましてや露悪的な思わせぶりなど全く無く、
エロスはオーラとなって立ち上っており、見る側としてはこれを押し留めようもなく
ただただ取り巻かれてしまうのでありますよ。


パッと見の気分かなとも思い、館内をぐるりとしながら何度この絵に帰ってきても、

やはり印象は同じ。こりゃあ、いっときの気の迷いではないなと思いましたですよ。


ともすると奪い去りたいような気を起こさせるとなれば、
もはや絵でなくして女性の化身なのではとさえ想像したりもするのですね。


はっきり言って「指」を見られただけで

高崎まで足を運んだ甲斐は十二分にありましたですが、もちろん他にもいろいろと。

例えばこれは「暮方」という昭和7年(1932年)の作品であります。


伊東深水「暮方」(部分)

「指」の場合、俯いて結婚指輪を見るめる姿が意味深に感じられ、

ドラマ性を感じるところでありましたけれど、こちらはこちらで正面の鏡に顔が映っておらず、

全く表情の読み取れないところに想像力を刺激されたりしようかと。


開け放った窓から夕暮れの風が忍び込んでくるわけですが、

この「忍び込み」に対して何とも無防備な瞬間が写し取られていますですね。

いずれにしも、単純に「美人画」と呼ぶには収まらないものでありましょう。


会場の解説に曰く「自らの作風が美人画の湧くに固定されてしまうことを本意とはせず、

昭和初期からはむしろ積極的に花や風景に取り組んだ」と言いますが、

どうしたって注文がくるのは女性像が含まれたものであったようで、

深水としても「そうであれば…」と単なる「美人画」に終わらない含みを作品に

持たせていったのかもしれませんですね。


後年になってかなりモダンな(時代の変化で当然ですが)女性の姿を描いたり、

はたまた「ピカソの表現を参考にした」というのがなるほどと思える「らしからぬ」作品があったり、

伊東深水の多彩な面も窺い知ることができたような。


ですが、大正11年に「指」を描いてしまったことで

その後のレールは敷かれてしまったのかなという印象が。

それほどに鮮烈なインパクトのあった「指」との邂逅でありました。


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