ゲーテ時代のフランクフルト?


これはゲーテハウス の中に飾って(展示して?)あった往年の帝国自由都市フランクフルトの姿。
ゲーテ の生きた時代に、町の周囲はこのような市壁に囲われていたのでありますなあ。


函館の五稜郭をいびつに巨大化したような堡塁が巡らされ、
かほどに外部からの守りが必要であったのでありましょう。


今でもフランクフルト・メッセと呼ばれる見本市で有名ですけれど、
古くからフランクフルトは定期的な大市の開催場所として皇帝から認められ、
それだけに大量の品物がここで集積し、フランクフルトには金目のものがたんまりあることが
誰にも知られていたでしょうから。


で、先の図で唯一マイン川を跨いでいる橋が描かれておりますですが、
そのアルテ・ブリュッケ(古い橋の意)の少し下流側に

シュテーデル美術館 の近くにあったホルバイン橋同様の)歩行者用の橋(下の写真)がありまして、
その橋のたもと、そこに次に目指す博物館があるのでありました。


フランクフルトのマイン河岸


結局のところ、かくも博物館を巡ってしまったのは、
やはり「Museumsufersfest 」のバッヂを付けてるがためでありましょうね。
入場無料にはどうしても弱いといいますか…。


フランクフルト歴史博物館


と、たどり着いてみますと時計塔の上には、
もしかして木組み?とも見える三つ子の兄弟が乗っかっているという、何ともユニークな建物。
これがフランクフルト歴史博物館(Historischesmuseum Frankfurt)でありました。


歴史博物館内の螺旋階段は長く…


塔の部分を貫いている螺旋階段を上り下りしながら展示物を見て回るわけですが、
これが何とも申し訳ないことながら、種々雑多といいましょうか。


昔のものがあれやこれやと展示されておるのでして、
それらから歴史を偲んでくださいということなのかどうか…。


古い地球儀あり… 陶磁器あり…
ミニアチュールあり… 西洋甲冑あり…


古い地球儀あり、輸入陶磁器あり、ゲーテ博物館 でもコレクションされていたミニアチュールあり、

そして歩き出しそうな?甲冑あり…と、まあこんな具合(もちろんほんの一部)ですが、

フランクフルトの歴史を偲ぶという点では、むしろインパクトがあるのはこちらかとも。


第二次大戦下の空襲で焼け野原になったフランクフルト


第二次大戦下の空襲で焼け野原になったフランクフルトのようすを再現したジオラマです。
辛うじて大聖堂の壁面だけが残った…てなところでありますね。


教会建築を上空から見ると十字架型になっていることはよく知られていますが、
焼け跡に十字架だけが残ったようにも見えてくるような。

何となく「原爆ドーム」を想起してしまったりしたですけれど、
同じ戦争での廃墟だからでもありましょうか…。


では、焼けてしまう前はどうだったか…ですが、もちろんマインハッタンを成す建物は後のことで、
他のドイツの町とさして変わらぬ風景が広がっていたのですね。


中世以来のフランクフルトの町並み


左手側がマイン川ということになりますけれど、

左上の一帯が(ちと突き出した洲のようにも見えますが)空き地然としてますですね。
ここら辺一帯はいわゆる河岸でありまして、

商都フランクフルトならではの賑わいがあったのではないかと。


マイン川の河岸に船が集まる


上のゲーテ時代の地図を部分的に拡大してみますと、
船が折り重なるようにうじゃうじゃ停泊しているさまが(ぼんやりながら)ご覧いただけましょうか。
ちょうど現在の歴史博物館の目の前あたりのようすです。


フランクフルト旧市街の遺構


そうした往年のフランクフルトの町の礎石が歴史博物館の地下で発掘されてありました。

ともすると、マインツのローマ遺構 とさして変わらぬものに受け止めてしまうところながら、

それよりは断然新しいのでしょうけれどね。
それにしても、これは井戸であるのか、下水口であるか。


果たして井戸か、下水口か…


以前、ヴィクトリア朝ロンドン に流行ったコレラの感染の謎を挑んだ医師ジョン・スノウの話を
本で読んだことがありますけれど、何でもかんでもテムズ川 に流してしまえばよいという
公衆衛生の考え方など皆無に等しい当時のようすは、おそらくフランクフルトとマイン川にも
通じることなのだろうなあと思ったりしましたですよ。
もちろん今は心地よい水辺になっているのですけれど。


今や心地よい水辺となっているマイン河岸

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