シャトー・メルシャンのワイン資料館 脇には、
本格的なものではなく説明用の試験的な小規模ぶどう畑がありました。


シャトー・メルシャン祝村ヴィンヤード


見てお分かりのように、これまで勝沼を歩き廻る中、そこらじゅうで目に付いた棚仕立てではない。
フランスやらドイツやらのワイン畑で見かけるような垣根仕立てなのですね。


テイスティングに先立つ説明でも垣根仕立ての優位性(例えば日当たり良好とか)の話があったたですが、
どうやらワインの原料たるぶどうには当然のように垣根仕立てを用いるのかも。


すると、今さらようやって気がついたですが、勝沼じゅうで見かけるぶどう棚は要するに、
ぶどう狩りが楽しめるようになっている生食用のぶどうで、ワインの原料ではないのですなあ…。
あれもこれもぶどうながら、使われようは全く違うようで。


ボルドウ神社


ところで、この垣根仕立てのぶどう畑の近くにやおらポツリと祠が立っているのですな。
何かと思えば「ボルドウ神社」という説明書きが。

明治初期外国産ぶどう苗木に付着して入ってきたウドンコ病、ベト病が山梨で蔓延し、ふどう樹が衰弱して栽培が困難な状況になった。その対策としてフランスで開発された農薬ボルドー液を散布したところ良好な結果がえられて普及しぶどう産地が救われたので、この農薬に感謝する神社を建立した。

今でこそ「甲州種」を使ったワイン造りは盛んに行われていますけれど、
明治の初め、ワイン造りを始めた頃には在来種ではうまくいかないことこから

外国種の移入がずいぶんと行われた由。


これによって日本には無かった病気の菌が持ち込まれ、

あわやぶどうは全滅かというのを救ったのが「ボルドー液」という薬剤であったというですね。


神社まで造られて感謝の意が表されていますけれど、

「ボルドー液」とは「硫酸銅と生石灰を混合する殺菌剤」だそうで、
最初のうちは「そんなの、畑に撒いて大丈夫なのか…」と危ぶむ声頻りであったそうな。


ボルドー液散布模範園跡


そんな時分に、自らの畑に「散布模範園」の標識を立てて、
散布しても安全だということを皆に知らしめた人がいたのでそうです。
その散布模範園の跡地に建てられているのが「ぶどうの国文化館」という施設でありました。


ぶどうの国文化館


先に覗いたワイン資料館はメルシャン株式会社という一企業による施設ですけれど、
こちらは勝沼町によって作られた、ワインだけにとどまらない勝沼とぶどうとの関係を
あれこれの側面から紹介しているのですね。


すでに行基にまつわる話は大善寺 に立ち寄った際に触れましたし、
ぶどうの棚仕立てを伝授した甲斐の徳本 のことも、その念仏塔のところで触れました。
ですが、ここでまた奈良時代の行基、江戸時代の徳本の間に挟まる鎌倉時代の、
雨宮勘解由伝説とやらが紹介されていましたですよ。


ある時、山ぶどうの変性種を見つけた雨宮勘解由、
「大事に育てれば、優秀なぶどうになる」と持ち帰って丹精込めたところ、
5年の歳月を経て繁茂するに至り、実りを得たそうな。


後には源頼朝 にも献上したということですけれど、
これに改変を加えたものが現在の甲州種ということであります。


時代が下って、雨宮の子孫は武田信玄 にぶどうを献上したところ、
太刀を賜ったとは、特段の名産品ぶりを伝えるエピソードではないかと思いますし、
さらに江戸期となると甲州街道の往来では「勝沼や馬子もぶどうを食いながら」という川柳が伝わる。


特段の名産とは別に、

この頃には馬子の手にも入る普及品が大量に安く出回っていたのでしょうか。


という具合に、近代以降のワインとの関わりを抜きにしても、
勝沼は文字通りのぶどう郷であったことが伺える話があれこれ紹介されておりました。


ですが、この文化館から歩いてさほどでもないところでは、ワイナリー巡りをしたり、
ついで売店で試飲や買い物をしていたりという観光客がそれなりにいたものの、
文化館の中はひとっ子ひとりいないという状況。


思うに、ワイナリー目当てでくる人たちにとって、勝沼の歴史やぶどうとの関わりなんつうあたりは

あまり興味を引く対象ではないのでありましょうね。


もっとも個人的なことでいえば、むしろそっちの関係に興味を抱いていても、
ワインのテイスティングとなるとその微妙さにさっぱり?…てなことでもありますから、
当然にこれもまた人それぞれなのでしょうけれど。


…ということで、わずかな本数の甲州市民バスでもって、
文化館前のバス停から勝沼ぶどう郷駅に戻る頃合いとなりました。


ぶどうだけじゃない側面もあったものの、やっぱりぶどうとは切り離せない勝沼を知ったことで、
このほどの甲斐路紀行は終了と相なります。
土産物はもちろんのことワインでありました。


勝沼土産のワイン2本