柏尾の近藤勇像 から甲州街道沿いに勝沼宿の方へ歩くことしばし、
大善寺というお寺さんにたどり着きます。
これがですね、思いのほか立派なところで驚いてしまったのですよ。


大善寺山門


やおら立派な山門に見下ろされる恰好になりますですが、
江戸時代に二度焼けており、1798年(寛政十年)に再建されたもの。


その後に災いを受けていないとなれば、幕末にも今見る山門が建っていたことでしょうから、
もしかすると近藤勇もこの山門を眺めやったのかもしれません。
ま、この看板にあるとおりではないにしても。


錦絵「柏尾坂の戦い」


山門からさらに石段を登り詰めますと、
薬師堂と呼ばれる本堂に到達しますけれど、これがまた実に立派な建物でして。
国宝と言われれば、むべなるかなと。


国宝・大善寺薬師堂(本堂)


弘安九年(1286年)の刻銘が残されているところからすると、築720年以上とは。
檜皮葺の大屋根が実に渋い(もそっとイメージどおりの写真だったらよかったんですが)。


ところで、立派だとか、渋いだとかと部分部分にあれこれ言ってますが、
(寺伝によればと前置きした上で)由来に触れてみますと、
開創はこれまたなんと!養老二年(718年)行基によると。


そして、聖武天皇の時代に「鎮護国家」の勅額と寺山号が下賜されるという由緒のもと、
52堂3,000坊を数える壮大な規模のお寺さんであったというのですよ。

本堂内で聞いたところによりますと、大月の辺りまで寺域であったそうですから。
(この辺りの地理的感覚はエリアに馴染みある人にしか分からないですね…)


今の大善寺はその奥の院であったということですが、
今に至る背景にはいろんなことがあったのでしょうけれど、
それにしてもこのお寺さんが「ぶどう寺」とか「葡萄薬師」とか言っているのは
勝沼という土地柄もあって、いささかキャッチーな作戦に出ているのかと思ってしまいました。


ところが、それはとんでもなく罰当たりな考えであることがすぐさま判明いたしました。
本堂内の厨子に納められたご本尊たる釈迦如来像は
5年に一度のご開帳(次は2018年10月)時にしか拝めないものの、写真で見てびっくり。
この薬師如来像、手に葡萄の房を抱えているではありませんか。


像自体は平安時代初期の作とされ、国指定重要文化財となっていることからも
あながち単なる自称ではないとなれば、キャッチーどころか筋金入りの「葡萄薬師」なのですなあ。


遡れば、諸国遍歴で甲州にやってきて行基がこの辺りの岩山で修行をした際、
満願の日の夢の中に、ぶどうを携えた薬師如来が現れた…これが養老二年(718年)であり、
大善寺の始まりにつながると。


これは勝沼と葡萄の繋がりにも関わる馴れ初めになるわけですが、
その辺りの伝説を寺内にあった解説板から引用しておきましょう。

以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬のぶどうのつくり方を村人に教えたので、この地にぶどうが栽培されるようになり、これが甲州ぶどうの始まりだと伝えられています。

大善寺伝説は、仏教渡来とともに大陸から我が国にもたらされたぶどうが、薬師信仰と結びついて、この地に伝えられたことを指すものとして理解されます。

あくまで伝説ですので、勝沼の葡萄栽培の本当のルーツは別にあるのかもしれませんけれど、
少なくとも平安時代作の薬師如来像が葡萄を手に持っているのは事実であることから、無関係とも思えず。


失礼ながら、柏尾の古戦場から勝沼宿に抜ける道筋にあって、
どうやら国宝があるらしいというだけで大善寺にお邪魔しましたですが、
あれやこれやと長い歴史に驚きを隠せない立ち寄りとなりましたですよ。