シャトー・メルシャン
のガイドに従って、テイスティング会場から移動した先にあったものは、
ワイン資料館でありまして、資料館自体がなかなかに曰くのある建物であるらしいのですね。
この中の展示に周辺で見られる歴史の跡を絡めて、
勝沼葡萄酒の事始めを辿ってみようかと思うのでありますよ。
事の発端は明治の初め、新政府要人がこぞって洋行してしまうというすごいことが起こりますが、
このとき一緒に出かけていた大久保利通は「夕食時に当たり前のようにワインを楽しむ」ことが
すなわち「先進国の豊かな文化」の一面でもあると受け止めたようでして、
帰国後の1873年(明治6年)、殖産興業策の一手としてワイン造りを奨励したのだとか。
これを受けて、行基の昔
以前から続くぶどう王国・山梨としては黙っておれるはずもなく、
県令・藤村紫朗
も大いに声を掛けて地元有志を募り、
日本初の民間によるワイン造りの会社「大日本山梨葡萄酒会社」が1877年(明治10年)に
設立される(前にも触れましたが、メルシャンはこの会社をルーツのひとつとしているという)。
そして設立と同時にですが、同社ではフランスで本格的なワイン造りを学ぶ伝習生として
高野正誠(25歳)・土屋龍憲(19歳)という2名の若者を送り出します。
民間からの海外派遣は「極めて異例」でもあったようですが、
高い洋行代金に掛ける費用は限られてますから、
「1年で何もかも学んでこい」とはなんとも酷い話。
それでも1879年(明治12年)に帰国した両名は、若すぎて洋行を断念させられた宮崎光太郎を交えて
フランス仕込みのワイン造りを開始するのですね。
今でも「葡萄酒醸造開始の地」なる解説板が立ち、
近くには1900年(明治33年)頃と少々後のものですが、
土屋龍憲がヨーロッパスタイルの貯蔵庫を模して造った「龍憲セラー」が残されているという。
しかしまあ、いくらフランスで教わってきたからといって、すぐさまいいワインができるでなし、
また当時の日本人には知ってる人でも「ワイン」=「甘味ブドウ酒」てな感じでもあったらしく、
会社は苦戦続き。
そこへ起こった不況(松方デフレ)で会社はついに解散となってしまうんですが、
宮崎、土屋らは設備などを譲り受けた新会社から
「大黒天印甲斐産葡萄酒」を発売するようになるのですな。
これは現在「宮光園」として公開されている宮崎光太郎邸(邸内で葡萄酒造りもしていた)ですけれど、
門には「大黒天印甲斐産葡萄酒」の文字が見えますですね。
こうして日本に本格ワインが定着することを目指して邁進していた宮崎と土屋ですが、
やがて共同事業から土屋が離れる形で両者は袂を分かつことになります。
その理由のほどは詳らかではありませんけれど、
想像するにフランス留学に行ったか行かなかったか、
この違いが大きく出ているのではなかろうかと。
フランスでワイン造りを目の当たりにしてきた土屋がマイスターであったとするなら、
フランスに行けなかったことで尚のこと日本でのワイン普及に情熱を注ぐことになった宮崎は
マーチャントとして関わったてな感じでありましょうか。
宮崎が販路拡大として東京に直売所「甲斐産商店」を開いたりする活動を横目に
土屋はひたすらに「本物のワイン」造りに拘ったのかもしれません。
時に宮崎光太郎の一本立ちは1890年(明治23年)のことでありました。
その後の展開は、なにしろメルシャン・ワインの持つ資料館ですので、
宮光こと宮崎光太郎の事業がどういう経緯を経て、
今のメルシャンにたどりつくかてなことになりますが、これがなかなか大変な紆余曲折。
ちとかいつまんで辿ってみましょう。
1934年(昭和9年)に甲斐産商店が大黒葡萄酒株式会社に改組される一方で、
1944年(昭和19年)にメルシャンに至る別の源流のひとつである日本連油株式会社が設立される。
戦時中のこととて、この日本連油は
「潜水艦などの発見に使われた音波探知機に用いる「ロッシェル塩」の原料となる
酒石酸の製造のために設立されたのですが、ワインに含まれる酒石酸を抽出していたのだとか。
戦後の1949年(昭和24年)、日本連油が社名変更した日清醸造株式会社は酒造業に転換し、
この会社でブランド名「メルシャン」が誕生します。
ちなみに、何とはなしフランス語っぽいこのブランド名はフランス語の「Merci」に、
「~する人」を表す「-ian」(例えば「music」と「musician」の関係)をくっ付けた造語で、
「Mercian」=感謝する人的な意味合いなのだそうですよ。
ここからさらに複雑になりますが、さらに別の源流といえましょうか、
酒造メーカーの三楽酒造株式会社が1961年に日清醸造と合併し、
メルシャン・ブランドは三楽へ。
一方、同年に宮光由来の大黒葡萄酒はウイスキー造りも手掛けて
会社名をオーシャン株式会社に変更。
翌1962年には三楽酒造とオーシャンが合併して三楽オーシャンとなり、
メルシャン・ブランドはこの会社に。
ここに至るまでのところは、ワインを製造・販売するにしても
他のお酒と抱き合わせの多角経営でしのぐしかないてな様子が偲ばれるところですが、
大日本山梨葡萄酒会社の設立から100年、ようやくにしてワインの潮目が変わったか、
消費量にして本格ワインが甘味ブドウ酒を上回るようになったそうな。
こうなるとDNAが騒ぐことにもなるのか、
1976年には「コンコード」という甘味ブドウ酒用の品種を植えていた畑を
本格赤ワイン用の品種である「メルロー」種に植え替え、
ワインへの本家帰りの道を進み始めるのですね。
やがて1985年に三楽オーシャンから三楽へ、
1990年には三楽からメルシャン株式会社へと社名変更が行われ、
さらにはキリン・ホールディングス傘下となることで、
むしろワインに特化した事業ができるようになったのではないかと。
国産ワインでは2014年度メーカー別シェアでトップに立っているのがメルシャン。
大日本山梨葡萄酒会社に参画した有志の人たちも、
もちろん初代の宮崎光太郎も喜んでいることでしょう。
ところで、メルシャンのガイドさんに聞くのもなんだなとは思いましたが、
この系譜を途中離脱した土屋龍憲のその後やいかに?と問うてみたところ、
どうやら別のところで土屋龍憲の流れを今に伝える会社があるとのこと。
やはり勝沼にあって「現存する日本最古のワイナリー」と
自社HPで紹介している「まるき葡萄酒株式会社」。
最初、社名は丸木さんとかいう人が始めたか、
丸の中に木が入る屋号みたいなものかと思ったですが、
おそらくは「marquis」(フランス語で侯爵、マルキ・ド・サドのマルキ)なのではないですかね。
大量生産、大量販売とは別に小規模ながらも高品質のワインに拘った(のだと思う)土屋龍憲は
自ら立ち上げた「marquis」ワインのその後に、こちらはこちらで満足していることでありましょう、きっと。