勝沼氏館跡
からほどなく、それまではぶどう畑のただ中であったのが、
旧甲州街道に到達、交差点にも勝沼宿と書かれてあります。
かつて宿場町には何とかそれらしき名残りを留める建物がちらほらと見受けられましたですよ。
道端の松の木ひとつにも言われがあるようでして、これにも「本陣槍掛けの松」との看板が。
「勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松」なのだそうで。
そうした歴史の名残りを見せる通りを歩いておりますと、
これはこれでまた歴史的建造物と言えそうな建物に行き当たるのですね。
見るからに擬洋風建築と思しきこの建物、
現在では「旧田中銀行博物館」となって一般公開されているのでありますよ。
ちなみに入場無料で、ボランティアガイドの方がお茶を入れてくれました。
「時間が許せば、ゆっくりしていってください」と。
ところでこの擬洋風建築ですけれど、
甲府の藤村記念館で仕入れたことからして「もしや?」と思いましたら豈図らんや、
藤村式建築であったという。
それも手掛けた大工の棟梁というのが松木輝殷という人で、
何と睦沢学校の設計者であったのだとか。
睦沢学校校舎が今では藤村記念館
になっているのですから、
関わりは大ありなのでありました。
旧睦沢学校が明治8年(1875年)に建てられたのに比べると、
こちらはずいぶん後の作ということになりますが、
元は勝沼郵便電信局舎として明治30年代に建てられたのだそうです。
その建物を(内装を変えたりはしたものの)そのままに、
大正9年(1920年)に設立された山梨田中銀行の社屋として使うことになった…
そこで「旧田中銀行博物館」との名称となっているのですなあ。
重要書類の保管施設であったというレンガ造りの土蔵(社屋の裏にある)の扉には
当時の社名が見てとれましたですよ。
で、本社屋の内部ですけれど、1階には帳場というとあまりに古風かもしれませんですが、
なかなかにおしゃれな感じであるなという感じのデスクが鎮座しておりました。
2階はというと、これがどうしたことか畳敷き。
これは改装前から、つまりは郵便局として創業した頃から和室として作ってあったそうで、
ある種、擬洋風建築ならでは?なのかもしれませんですね。
日本人にはどうしたって畳がくつろげるといいますか。
そうした(決して広くはないながらも)くつろぎの空間だったからかもですが、
完成直後には明治天皇行幸の行在所として利用されたこともあったとか。
また、銀行自体は世界大恐慌が飛び火した昭和恐慌の煽りをくらって、
1936年(昭和11年)に廃業となりなった後は頭取の一族、田中家の住宅となっていましたけれど、
第二次世界大戦中は北白川宮(戦後、皇籍離脱)が勝沼に疎開してきた折に関係者が住い、
宮家ゆかりの品々が残されているということ。
この三つ葉葵紋のついた箪笥もその当時のものと説明されたものの、
はて北白川宮家とどんな関係が?と思ったですが、
どうやら母親が尾張徳川家の出なのですなあ。
ところで、お話を伺ったボランティア・ガイドの方は結構なお歳でらっしゃったですが、
学校へは毎朝この建物の前を通っていたそうな。
その時分、敷地を囲う柵の部分は付いておらず(戦時に物資として持っていかれたらしい)、
後に古い写真を参考に再現したそうなんですが、その柵の部分をちとクローズアップ。
大きく赤丸で囲んだ部分、よく見ていただければ「田」と「中」という文字が。
実に実にさりげなくも大胆に「田中、田中、田中…」と。
このあたりの意匠もまた擬洋風建築を見るお楽しみでありましょうかね。