長らくとんだ勘違いをしていたのが、あるときふと「そうか!」と。
ここで言うのは人名と地名との関係でありまして、
例えば足利という一族が住んでいたから足利という地名になり、
新田という一族が住んでいたから新田という地名がつき…と、
人名優先で考えてしまっていたですが、はてどうしてそのように思い込んだか。
しばらく前に鎌倉幕府執権・北条氏
に関する本を読んでいて、
これが全く逆の関係であったのだと、ようやく思い知ったような次第でありました。
曰く、源氏の一族ながら、足利荘
にいた人たちは足利何某と名乗り、
同様に源氏の流れでも新田荘の方の人たちは新田何某となった…てな具合。
家督を継がない男子が分家として、一家を興す際にその地名でもって名乗りを上げたてな
感じでありましょうか。
ですので、勝沼をそぞろ歩いておりますときに出くわした「勝沼氏館跡」なる史跡に関しても
勝沼氏という一族がおったから、勝沼という地名になったわけでもなく、
勝沼にやってきた人が勝沼と名乗ったのでして、そはいったい誰ぞ?となれば、
武田信玄
の父・信虎の弟が勝沼信友となったことが始まりということになるようです。
勝沼信友は要するに武田信友であって、晴信(信玄)の叔父にあたり、
武田家家臣団の中では取り分け信頼厚き一族の内てなことでもあるのか、
勝沼に配置されたこと自体が信頼の証しのようなものでもありますね。
勝沼は甲府盆地の東端であって、
先に柏尾の古戦場でも見たように甲斐の中心地への出入口のひとつ。
東に笹子の嶺を挟んだ向こうには、今の都留市あたりを本拠とする小山田氏がおりまして、
武田家に臣従してはいるものの、何せ天下の要害を挟んだ向こうですから、
独立心が旺盛といいますか、歴とした支配圏を維持していたわけです。
その小山田氏の抑えとしては
信頼のおける弟・信友に任せることにしようと信虎は考えたのでしょう。
ちなみにこの小山田氏はといえば、
後に天正十年(1582年)武田勝頼が長篠で織田・徳川連合軍に破れ、
追撃を逃れて岩殿城を目指すも、城主であった小山田信茂は勝頼らを城に入れずじまい。
結果追い詰められた勝頼らは自害して果て、甲斐源氏・武田家は滅亡と相成ったのでありました。
てなふうに言いますと、どうしても小山田氏にいい印象は持ちにくいことになりますけれど、
裏切り、裏切られは戦国の世の習いでしょうから、決め打ちにはしにくいですが。
で、この国史跡「勝沼氏館跡」ですが、
1973年に山梨県がワインの研究施設を建てようとして土を穿り返したところ、
あらま、遺跡が?!となったのだとか。
甲斐一国を切り取った戦国大名武田信虎の実弟の居館だけに、
なかなかに立派な仕立てであったことでしょう。
堀と土塁を二重に巡らした敷地からは
「建物跡、門跡、水溜、側溝、土塀など多くの遺構」が見つかり、
16世紀初頭頃の居館の様子を偲ぶことができるようです。
ところで、信友に始まる勝沼氏ですけれど、
天文四年(1535年)に後北条氏との合戦で信友が討死した後、
嫡男の信元が嗣いで武田信玄の合戦に次々出陣を重ねるも、
永禄三年(1560年)「逆心の文あらはれて勝沼五郎どの御成敗」と「甲陽軍鑑」にあるとおり、
謀反の嫌疑で信玄に成敗され、勝沼氏は断絶してしまったと…。
それ以来、この地は土を被り、忘れ去られて長い眠りにつくことになったのでありましょうか。
「兵どもが夢の跡」でありますなぁ。



