この間、北温泉 からの帰りに走っていた東北自動車道で(といっても、ただ乗ってただけですが)、

佐野藤岡ICを過ぎてしばし、「お!正田醤油の工場だ」と。


思っているうちに館林ICを通り過ぎていったわけなのですけれど、

「そうだった…、館林も行かんとね…」とまあ、そんなふうに思い返したようなことも

このほど館林に出かけた由縁のひとつでありまして。


館林の町は昔の城下町からして今の東武伊勢崎線館林駅の東側に広がっていたのですが、

駅を降り立ってまずは西口へ。


ひと通りも少なく、がらんとした感じのロータリーの先に古びた日本家屋がちらり、

その姿を覗かせているのですね。

駅近ということもあり、最初の目的地はここ、正田記念館でありました。


正田記念館@館林


昭和色の濃い方々にはすでに「正田」というだけで、

この後にどういう話が出て来るのかは「まるっとお見通し」状態でありましょうけれど、

要するに現在の皇后陛下(美智子妃殿下の方が馴染むところですが…)のご実家、

正田家の本家なのでありますよ。


ご存知のように皇后陛下の祖父の代に、醤油醸造を営む本家とは別に

製粉事業の会社(現在の日清製粉)を興して大企業になっている一方で、

醤油の方は必ずしも全国区ではないものと思いますけれど。


とまれ、この正田記念館は本家の方、正田醤油株式会社のかつての本社社屋で、

1853年築の建物ながら、何と1986年(昭和61年)まで現役で使っていたそうなのでありますよ。


家柄といいますか、祖先は武士であって、新田義重の家臣であったそうな。

義重は八幡太郎義家の息子、源義国の長男であって、初めて新田姓を名乗った人。

ついで言いますと、義重の弟・義康が足利姓を名乗って、

後々に新田義貞と足利尊氏 が鎌倉末期から室町初期に大げんか(?!)をするのですなぁ。


ともかく、そのくらい古いところまで遡れる正田家でありますが、

江戸時代になって世の中が落ち着いてきますと、武家ではどうも立ち行かなくなったりするのか、

それまでの新田荘から住いを館林に移して、米穀商を始めたそうであります。


これが大した身代を築いて明治に至るのですけれど、

幕末維新期の当主だった三代目正田文右衛門は米穀商を投機的なものとして

「子孫に残すべき事業ではない」と見切ったのだとか。


でもって、大豆や小麦の取引先で懇意にしていた茂木房五郎(野田の醤油醸造家)に

新事業をどうしたものかと相談したところ、「それなら、醤油をやりなさい」とアドバイス。

茂木さんも親切な人で作り方から何からを教え、杜氏まで送りこんで手助けをしたそうな。


確かに米相場なんかを考えれば「投機的」であるわけですが、

家業をそうそう方向転換できるものではないでしょうに、

武士から商人へ、米穀商から醤油の製造・販売へ、2度の大転換に見事成功、

なかなかどうしてのサクセス・ストーリーでもあるような。

もちろん、大変な苦労をされたのでしょうけれど。


ところで、記念館の館内には醤油の製法を伝授する書き物やら、初期の工場の日誌やら、

一時期醤油醸造にも携わった正田貞一郎(美智子妃の祖父)が取り入れた複式簿記の帳簿、

はたまた醤油造りの道具などが多々展示をされておりましたですよ。


キッコーショウ醤油の宣伝ポスター

昔の宣伝ポスターも貼られていたですが、レトロ感が建物と実にマッチしておるような。

モデルはもしかして香川京子でもあろうか…と想像したり。


地元・館林で入ったうどん店などで見かけるのは正田醤油の小ビンであって、

根付いているのかなと思う一方、タバスコの会社とも業務提携しておるのか?!

思いのほか多角的な食品事業を展開しておるな…と。


正田醤油製品を土産に

ということで、醤油の小ビンとTABASCOブランドのピザトースト・ソースを

土産代わりに買ってかえることにしたのでありましたですよ。