「印象派 」と付くだけで大変な混みようとなることは経験からして明らかだものですから、
どうしても印象派関係の展覧会には脚が遠のくことになるといいますか。
で、こちらはどうかな、どうかな…と思いつつ出かけてみて、
あんまり人が多いようなら諦めるかと覚悟を決めて東京都美術館に出かけてみたですが、
想像したほどの状況でもなく、まあ、存分に見ることができたような。
「新印象派 光と色のドラマ」という展覧会でありました。
何度かさらりと白状(?)したことがありますので、ご存知の方も多かろうと思いますが、
個人的には色覚異常というさだめを背負っておりまして、
補色を並べて色を際立たせる点描手法はあたかも色神検査のようにも思えてしまうという。
会場内のビデオでもこの補色の関係を解説していましたですが、
ある色の組み合わせでは反対色を並べているにも関わらず、
両者の色の違いがよく判らん…という事実に出くわし、ああ、やっぱりなと。
まあ、長年付き合っていますので驚くには当たらず、
いろいろ見えにくいものには慣れておりますですが、
改めてフツーの人たちとは見え方が違っておろうなということ。
もっとも点描作品に限った話ではないのですけれど。
と、こうした状況であるにも関わらず、実のところは点描作品には興味津々でありまして、
未ださほど意欲的に絵を見に行くなんつうことをしていなかった当時に
飛行機がディレイして乗継が叶わず航空会社持ちでシカゴに一泊することになり、
翌日の飛行機待ちの間を利用してシカゴ美術館に出かけ、
「うぉ~!」と思う絵との出会いがあった…とまあ、こうした経緯によるなわけです。
そのときに「うぉ~」と思ったのが、
ジョルジュ・スーラ作「グランド・ジャット島の日曜の午後」だったのでありますよ。
それはそれは凄い絵でありました。
およそ2m×3mの大画面を細かな点でもって描き尽くしたというご苦労さんなところも
感心しますけれど、日曜の午後のセーヌ河畔を切り取ってそこに溢れる詩情を
何と言おう…てなものだったわけです。
それ以来、点描作品には興味津々ということになりますが、
昔話はおしまいして、「新印象派」展のお話。
点描はスーラをもってその嚆矢とするところですけれど、
も一人忘れてはいけんのが、ポール・シニャックでありますね。
シニャックの個性としてはスーラよりももそっと粒を大きめにした点描で
色遣いもスーラの淡さよりもくっきりしているあたりでしょうか。
本展の構成でエピローグに当たる部分が「フォーヴィスムの誕生へ」となっているあたり、
シニャックもそれを準備した一人なのだなと、展示を見ながら思うわけです。
展示の方は、ピサロの「エラニーの農園」など
いわゆる印象派と点描の分岐点とも思われるあたりの作品から始まります。
こうした最初期のあたりではスーラ作品もまだ点描を用いずに、
例えばベルト・モリゾの作風を思い起こさせる光の見せ方をしているのですね。
それが色彩理論を元にした効果の研究を筆触分割という手法で示そうと
スーラ、シニャック始めさまざまな画家がそれぞれの点描を試みるわけです。
結局のところその流れは先程触れたようにフォーヴィスム へ向かったというか、
フォーヴィスムを開いたというか、そうしたことになるものの、
点描を用いた新印象派が色彩理論的にその混じりあって見せる効果を求めて
色を置いていったのに対し、フォーヴの画家はもっともっと自由な色遣いをしている。
点描が求道者的作業であるのとフォーヴの大らかさは相当に違うような。
てなことを考えてきたときに、新印象派にとって不幸だったことは
(旗手であるスーラが31歳で亡くなってしまったということもありますが、それ以上に)
点描手法が試みられ始めて早々に、先程の「グランド・ジャット島の日曜の午後」という
一大傑作が描かれてしまったということなんじゃなかろうかと思いましたですよ。
とはいえ、さまざまな画家がこの新手法をそれぞれに試み、
スーラとそっくりなものもあれば、独自の個性を発揮しているものもあり、
見所の多い展覧会であったなと(さほど混んでいなかったことにも満足)。
ただ、普通の展覧会以上に
近くで見ていた人がじわじわ後退して遠目でその効果を見ようとする姿があり、
そこここで後方不注意の衝突が起こってましたですね。
これから行かれる方は、この点にご注意を。