ということで、交通センター (熊本のバス・ターミナル)から歩いても程なく、
熊本城へとやってきたわけですけれど、熊本城と言えばこの人!でありましょうね。
賤ヶ岳の七本槍、そして虎退治で有名な加藤清正。
その清正が熊本入りするまでの肥後国は国人領主がせめぎ合う状態で、
(それに前任者の佐々成政も手を焼かされた結果、清正にお鉢が回ってくるわけですが)
つまりは城もさほど大きくなかった。
そこへ肥後半国(北半分、南半分は小西行長領)の領主に封ぜられた清正がやってきて、
これまでの城の近くに新たな、そして巨大な城を建てた…これが熊本城なのですな。
実際には、清正の後、息子の代に加藤家は改易、
その後の熊本城主は細川家(しばらく前に首相をやった方のご先祖)となって
幕末に至りますから、清正が熊本にいたのは瞬間風速的なところなわけですが、
築城したのは加藤清正に間違いない。で、この扱いなのですなあ。
ちなみにこの案内図の赤線で囲んだ部分が、入場料を払わないと入れないエリア。
そうたくさんお城見物したわけではないですが、かつての広い城跡はだいたい公園になっていて、
天守閣とか大きな櫓とかめぼしい建物に入るときには入場料を払うというのが
ですが、ここ熊本城ではそのエリア内がすでにからして見ものの連続、
故に最初から料金を払うことになるわけですね(もちろん、中に入ってさらに払うことはなし)。
見ものの連続てなことを言いましたけれど、
敵の寄せ手を食い止めるために設けられる桝形が、はっきりいってそこらじゅう桝形だらけ。
一歩足を踏み入れただけで、「こいつはやる気だな」と思わせる城になってます。
実戦への備えという点では、城の敷地内にたくさんの井戸が掘ってあるというのも
万が一の籠城戦に備えてのことと言います。
築城を始めたのは1591年ですけれど、1606年の完成に至るまでの間に
清正は文禄・慶長の役(1592~1598)で朝鮮半島に出兵しており、
明の軍勢に囲まれ籠城した蔚山城での戦いを思い起こして、
こうした井戸の備えも万全にしたとも言われているようで。
その延長で言えば、やがて明国の軍勢が日本に逆襲をかけてくることを想定して、
熊本城をこの上なく堅固なものにしたという話もあるようで。
その守りの堅固さは折々に見ることになりますが、差し当たっては広い敷地内を見て回ることに。
天守閣から一段低い辺りには周囲にぐるり櫓を巡らしてあって、
この櫓がそれぞれに重要文化財(創建当時のままだそうで)だそうな。
この櫓だけを見ても、建物部分が土台の石垣からはみ出しているのが分かります。
登って来る敵兵を寄せ付けないためでありましょうね。
そして、またその石垣もまた、すごいものでありましたですよ。
これは「二様の石垣」と言われて有名な箇所のようですけれど、
築城術も日進月歩の時代、手前のようにややなだらかなカーブの石垣が
後から造られたものになると奥のように反り返らんばかりのカーブを描くようになる。
こりゃあ、敵兵とておいそれとは登れませんでさぁね…。
と、天守閣をお目に掛けたところで、さらに奥へと向かいます…。