この間見た映画「パガニーニ」
のところで引き合いに出した「アメリカン・ビューティー」。
久しぶりに見てみましたですが、こんな話だったのですなあ。
中年男(ケヴィン・スペイシー)が娘の同級生を見て、
口は半開きでとろんとした目付き、どうにもこうにもだらしのない状態になったばかりか、
その同級生の好みはマッチョ・タイプと知るや、やおら筋トレに励んでしまう姿に
笑っていいのか、嘆いたらいいのか…という部分ばかりが記憶に残っていたのですね。
その部分だけで言えば、
「アバンチュール・イン・リオ」という映画の焼き直しになってしまいますが。
ケヴィン・スペイシーに相当する役どころをマイケル・ケインがやってまして、
こちらはもっぱら言い寄られてしまうのでしたけれど。
ですが、そも「アメリカン・ビューティ-」とのタイトルも気に掛けてみれば、
それだけの映画ではなかったのも当然ということになりましょうか。
アメリカ映画(だけではなさそうですが)にありがちなパターンの一つとして、
崩壊寸前の家族が何らかをきっかけに信頼を取り戻し、再生するという話がありますね。
ところが、この映画の場合は崩壊しっぱなしで、最後にはある種の破綻に至るという。
取り巻く状況としては(昨今ではやはりアメリカばかりとは言えないものと思いますが)、
もはや仮面をかぶった状態であるかのような夫婦がおり、
娘と父親とは口をきくこともなく、隣には窓越しに覗き見る妙な若者がおり、
その父親はナチス
の公式晩餐会で使用されたという皿を隠し持つ人物だったりする。
単に家族崩壊という以上、こんなふうに例示される要素が誰しも身近にひとつやふたつは
普通に感じられる状況で生活している、それをちょっと大げさにしたということでしょうか。
アメリカの人たちには「皮肉」として受け止める範囲内なのでしょう。
そうした様子を描きだした映画のタイトルが「American beauty」、
アメリカの美だということでもありますし。
ですが、この「American beauty」とは
(Wikipediaによればですが)バラ
の品種のことなんだそうですね。
夫婦仲はうわべでは分からないものの、冷え切っている状態ですが、
そのうわべの繕いこそが幸せの証しと思い込もうとしているのか、
妻(アネット・ベニング)は庭でせっせとバラの世話をしているという。
また、娘の同級生にでれでれになってしまった夫が夢想するその彼女は
一糸纏わぬ代わりにバラの花びらに埋め尽くされていたりもする。
前者は現実世界でありますし、後者は夢まぼろしの世界なのですが、
いずれにしてもバラのキーワードは幻想ということになるのでしょう。
そして、最後の最後で話に結末をつけるのが、実は銃によってなのですね。
この辺りはさすがに日本ではそのまま受け止めるまでには至っていないだけに、
アメリカ的というか何というか。
そもそもアメリカに銃を持つ権利があるというのは、
開拓期に「自分のことは自分で守る」意識があったわけで、
要するに自衛のための権利であろうと思われますね。
自由の国アメリカとしては、「自分のことは自分で守る」ための必要手段として、
自衛のための権利を全うする手段を保障するものとして銃を持つことも自由なのかもしれません。
が、本来的に自衛のためのものでありながら、そうでない使い方もできてしまうものの場合、
それが本当に自衛のためのものであるかどうかの判断を、
現に銃を持っている人が判断することになるわけで、
結局のところ、そうした判断が多分に独りよがりであったが故の悲劇みたいなことが
たくさん生まれてしまってもいようかと。
ここでは「個人」ベースのことを言っていますが、考えるベースをもそっと広げてみても、
同じようなことが言えるのだろうとの想像は難くない気がします。
ベースを広げたならば、その分だけ生じるかもしれない悲劇の方も拡大するだろうことも。
悲劇の予測はともかく、アメリカという国がどうやらそうした方向性でものを考えているとすると、
ここでもやっぱり「何か幻想を抱いてるのでないの…」と思ったりしてしまいます。
おそらくは映画を制作した側がそうした点までも考慮に入れていたとは思いませんけれど、
「アメリカン・ビューティー」=アメリカの美とした皮肉の中には、
こうした点も読み取れてしまうような気がしたものでありますよ。