なまじ近くだと、いつでも行けるから…てなことで油断をしておりますと、
「あらら、もはや最終日?!」ということになってしまった展覧会、
「マリー・ローランサン展~女の一生~」@三鷹市美術ギャラリーに出かけたのでありました。
前にも書きましたですが、蓼科 にあったマリー・ローランサン美術館が閉館して、
そこのコレクションはおいそれと見られるものでなくなってしまったという切迫感があり、
機会をつかまえては見ておくに如くはなしと思っておるところでありまして。
しかしまあ、それにしても「女の一生」という副題は何やら古風な印象が。
それに対してローランサンのイメージはといえば、旧弊にはしばられないというか、
自由奔放というか、そんな気がしてしまうところもであろうかと思いますけれど、
結果そう見えるのにも当然苦労があったわけで、そこら辺りも辿っちゃおうということでしょうか。
その苦労の部分として、解説ではのっけからモーリス・ユトリロとの共通性を示唆していたですね。
同じ1883年にパリで婚外子として生を受け、没年もユトリロの無くなった翌年、1956年。
まさに同時代のパリの空気の中で生涯を過ごしたことになりましょうかね。
(まあ、ユトリロに比べて、ローランサンはドイツやらスペインやらあちこち行ってますが)
ユトリロの生涯もかなり奇異な状況に置かれていたですが、
ローランサンの方はやはり「女性であること」が関わってくるわけでありますね。
パリのエコール・デ・ボザールに女性の入学が認められたのは1897年だそうですから、
女性が画家になるという意識、認識がおよそ男社会の頭にのぼらない時代、
何を理由にかは分かりませんけれど、マリーは画家を志望することに。
ところが、母親がこれに難色を示し、辛うじて許されたのが陶器の絵付けを学ぶこと。
何でも当時の良家の子女にとって陶器の絵付けというのはたしなみのひとつとされていたそうな。
そこで、1901年、マリーは18歳で国立セーブル陶磁所の講習に通うようになるわけですが、
やはりそこには芸術的空気が横溢する場所でもあったでしょうから、
むしろ画家になりたいとの望みは大きくなるばかりではなかったろうかと。
やがて、画塾に通うようになると、ジョルジュ・ブラックと知り合ってキュビスムの影響を受け…
となれば、エコール・ド・パリ前夜にあって、多くの創作エネルギーとの邂逅があったことは
容易に想像できるところでありますね。
展示の並びには、大皿に絵付けされた女性像はロートレックを思わせるものであったり、
ゆるやかに?キュビスムに臨んだ静物画があったり、「アンリ・ルソー を敬愛し」ていたとなれば
「なるほど!」という作品があったり、はたまたゴーギャンのタヒチを思わせる背景、
アール・ヌーヴォー的な意匠を配置してみたり、目の描き方からはモディリアーニが思い浮かんだり、
と試行錯誤を重ねたことが見て取れるような。
これが、1915年頃になって「これはもうローランサン風以外の何ものでもないね」というところに至ります。
もはや真似っこではいけんと思ったのか、試行錯誤の果てにたどりついたものなのか。
淡彩で簡略化された造形、実に儚げにも見える女性像の創造でありますね。
多くはマリー自身を絵の中に投射したてなふうに聞くと、
ともすると「きれい、きれい」で終わりそうな見てくれでもあるローランサンの作品の
キャラが立ってくるような気もします。
ですが、これも展覧会で間近に見てこそと思うのですけれど、
若い女性を描いて、そこに若々しい生気といったものが弾けてたりするものではありませんので、
今まで理解が至りませんでしたが、あたかも人形を描いたかのようにも見えながら、
その実、「人」らしさが間違いなくあるのですよね。うまく言えませんが。
上のフライヤーに配された「音楽」(1944年頃)などは一つの到達点かと思いますけれど、
晩年までパッと見の画風は変わらず一貫したものと見えながら、
輪郭線の使い方に変化があって、どうも後の方が多用されていて、
そうした作品(「音楽」も)は近付いてしまうとこれが気になってしまうので、
引いて見ると絶妙なブレンド感に。
てなふうに、そう簡単には見られないと思えばこそ見に行ってしまう中で、
そのたびに何かしらの発見があったりするのだろうなあと思うのでありました。