賤機山古墳 へは赤い鳥居を潜って大きな神社の神域からアプローチすると言いましたけれど、
この静岡浅間神社の境内は相当に大きなもの。


それもそのはずで、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)三社を
総称して静岡浅間神社と言っているそうで、この三社の他にも4つの境内社がありまして、
それぞれ普通にひとつの神社くらいの感じですから、当然に敷地も広くなろうというものです。
ちなみに地元の人たちは「おせんげんさま」と通称しているようです。


神社の御由緒によりますと大歳御祖神社が創祀されたのは西暦で言うと何と!273年。
応神天皇(Wikipediaによれば「実在性が濃厚な最古の天皇とも言われる」)の時代だそうな。


つうことは、6~7世紀の賤機山古墳に古代ロマンを感じる云々以前の話として、
大歳御祖神社はあったことになりますね。凄い話ですなあ。
先に潜った赤鳥居は、この古式床しいお社に続いておりましたですよ。


もっとも神部神社はもっと古くて、応神天皇より五代前の崇神天皇の時代。
西暦にすると紀元前になってしまいますから、もはや神話の世界と言えなくもないような。


まあ、応神天皇にしても確実に実在したとは言い切れてないようですから、
どっちもどっちなのかもですが、とにかく長い歴史を誇っておるわけですね。


これに対して浅間神社は延喜元年(901年)、
その名の通りに富士山本宮から分祀された富士新宮として始まったわけですが、
富士山 に近い土地柄の故もあってか、尊崇を集め、
今では全体をして浅間神社と総称するようにもなったのでありましょう。


という、思いも寄らず大変なご由緒の神社だったわけですが、
改めて浅間神社(神部神社と同殿)へと外から接近してみるとしますですね。


道路に面した門をひとつ抜けたところにあるのが楼門で、
扁額に「當國總社・冨士新宮」とあるのがなるほどですけれど、
古式床しいイメージと異なる色鮮やかさは総漆塗りで、彫り物にも色彩が施されてますなぁ。


静岡浅間神社楼門


さりながら、この奥にある大拝殿はその巨大さ(「高さ25mで全国唯一無比の大建築」とか)と
賑々しい装飾は楼門を遥かに上回るものでありましたですね。


静岡浅間神社大拝殿


いかに長い由緒があろうとも、こうしたことは昔々からのものとは思われないところで、
木造建築ですから焼失の憂き目に遭ったようなことも一度は二度ではないでしょうけれど、
古いところはさておいて徳川との関わりのほどを。


賤機山の城に拠っていた武田軍 との戦いの際、

徳川家康はこのお社に戦勝祈願をすると共に、

争いが治まった暁には必ず再建すると誓った上で、
(戦いやすいように)社殿を焼き払ってしまったそうな。


後に家康は誓いを守ってお社の再建を果たし、
三代将軍の家光がこれに大々的に手を加えるよう指示したそうですが、
これは日光東照宮を造営した大工棟梁を派遣したのだと言います。
なるほど東照宮に通ずる賑々しさはそうしたこともあってのことかと思いますですね。


ただその時の修復造営は火災で焼失してしまったようで、
今に至る社殿の再建は11代将軍家斉の時代に始まり、
1804年から「60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて」なされたもの。
「東海の日光」と称されたと言われれば、先ほどの感想どおりであるなと思うところです。


東海の日光


ところで、境内の一角には静岡市文化財資料館なるものがありましたので、
これも覗いてみることに。


静岡支文化財資料館


期間限定で公開されていた「東海道図屏風」の細かな描き込みも面白かったですが、
ここへ来て徳川以前の駿府、つまりは武田家支配の時代、今川家支配の時代のことにも
ようやっと触れることができたのではないかと。
どうしても徳川の陰に隠れてしまうようなところがありますから。


されどそれも致し方ないのかなと改めて。
江戸に幕府が開かれ、将軍を秀忠に譲り、

家康は駿府に移って大御所と呼ばれるようなりますけれど、
てっきり隠居なのだろう、時には秀忠に口出しをしたかもしれんけど…と思うと大間違いのようで、
要するに院政みたいなものでしょうか、日本国の主は駿府にありと外交使節との謁見を始め、
取り分け外交における檜舞台は駿府であったと言いますし。


駿府の町の発展、ここに極まれりの状況を作ったのが徳川家康だったわけですから、
武田も今川も影が薄くなるのはやむを得ないところかも。
と、徳川の世の栄華に思いを馳せる浅間神社詣でありました。