静岡駅 から県立美術館 への往路はバスで行きましたけれど、
帰りはゆるゆる坂を下ってたどり着く駅から静鉄電車で新静岡駅へと戻ってきました。


JR静岡駅と静鉄の新静岡の微妙な離れ具合は、
八王子におけるJRと京王線、津田沼におけるJRと京成線あたりを思い出させますですね。


ま、それはともかくとして新静岡のターミナルビルの筋向いに
ペガサートという複合的な施設の入ったビルがありまして、そのビルの1階外側、
歩道に面して建てられているのが、史跡「西郷・山岡会見の地」を示す碑でありました。


史跡「西郷・山岡会見の地」碑


西郷・山岡と言って「誰?」ということもなかろうとは思いますが、
この二人、西郷隆盛 と山岡鉄太郎(鉄舟)のこと。


西郷隆盛・山岡鉄太郎のレリーフ


解説はちと長いですが、石碑脇の説明文に頼ってみるとしましょう。

慶応4年(1868年)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年三月九日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。
この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しが合意され、五日後の三月十四日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられるものである。

「明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられる」とは
静岡市教育委員会のお国自慢が混入しているやに思わないでもないですが、
少なくとも(説明文にも出てくる)勝海舟と西郷隆盛との会談場所跡地を示す東京のものよりは

立派な設えでありますね。


ただ、今回静岡に来るにあたっては

山岡鉄舟と幕末に関するあたりを改めて予習してきたですが、
この説明の記述はこれでいいのでしょうか…。


細かいことを先に言えば、

徳川慶喜はこの会談前年(1867年)の大政奉還後に将軍職を辞していて、
西郷と山岡が会見したときにはもはや将軍では無かったわけですから、
さも将軍慶喜の処遇を話し合ったと書かれてしまうと誤解が生ずるかもしれません。


そして、もそっと大きなところの方ですが、こちらは「違ってる」とまでは言えませんし、
かくいう自分自身、今回の予習で「そうなんだ…」と思ったことでもあるのでして、
「勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎」という部分に関してであります。


談ずべき内容は勝海舟の考えを反映したものであったとは思いますが、
そも山岡を派遣したのは勝ではなく慶喜で、意図は「慶喜は手向かいません」と
迫りくる官軍に対して飽くまで恭順の姿勢を示すことにあったというのですね。


そして立てる使者に慶喜は高橋泥舟(鉄舟の義兄)を指名するも、
泥舟はお役目上慶喜の傍を離れるわけにはいかないとして、泥舟が鉄舟を推挙したそうな。

こうなってくると、生半可な知り方では歴史を見誤る可能性もありそうな気配もしてこようかと。


とまれ、官軍軍勢に取り囲まれた道をたどって

駿府までの使者を果たすのは尋常でなかったでしょうし、
途中にあった倉沢間の宿 や清水次郎長の手助けが得られたのはある意味、

鉄舟の威風や人徳あればこそでもあったでしょう。


維新後の鉄舟と駿府との関わりとすれば、

駿府藩の藩政補翼、廃藩置県後は静岡県権大参事となったりしていて、
徳川宗家を継いだ徳川家達に付いて江戸から落ちて来た多くの侍を帰農させて、
牧ノ原台地の開墾、茶の作付けに従事させ、後の茶どころ静岡の礎作りにも関わったのだとか。


静岡県庁に程近い、かつての駿府城三の丸堀端に「教導石」という石碑がありますけれど、
これの正面に見える文字は、書にも秀でた山岡鉄舟の手になるものだそうです。


教導石


そも教導石とは?ですが、これも現地の解説から少々引用を。

明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」との趣旨に賛同した各界の人たちの善意をもって明治十九年(1885年)7月に建立されました。…
教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ル方」とし、住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情等がある人はその内容を貼りつけておくと、物事をよく知っている人や心ある人が左側面の「教ル方」に答を寄せる、というものでした。

足利学校 にある「字降松(かなふりまつ)」の拡大版、

はたまた明治期のyahoo知恵袋のようなものと言ってよいかと思いますが、
煎じつめれば分け隔てのない相互扶助、この精神に鉄舟は賛同したからこそ

筆を執ったのでありましょう。


幕臣でありながら勤皇の志士でもあったとか、女遊びが甚だしかったとか、
人にはいろんな面がありますけれど、教導石の存在理由を見直すのと絡めて
山岡鉄舟の事績を見、考えを推し量ってみますと、

静岡に対してと限ることなくいずこであっても、またいつの時代にも通じるものがあるのではと

思いを巡らすことにもなるのではないでしょうか。


ちなみに予習代わりに読んだのは日本経済新聞社刊のこの本で、
記者の方だけに取材の結果たどりついた話など面白いところもありましたが、
どうもエピソードばかりの積み重ねのような気がして、
鉄舟を知るにはこれだけでは足りないかもしれませんですね。


山岡鉄舟/小島 英煕