ちょこっと行ってきたというだけですのに、
カテゴリー分けのタイトルまで付けてしまって(笑)。
本当はちょっとの意味に「足利小紀行」にしようと思ったですが、
パッと見「足利小(学校)+紀行」とも受け止められてしまう?との懸念が過ぎり、
それなら「小」と「荘(園)」を掛けて…と、やおら要らぬ説明から入ってしまいました。
東武足利市駅の目の前、いかにも鉄!の感じがレトロな工業遺産ぽさを醸す仲橋で
渡良瀬川を渡ってほどなく、早速に足利随一の観光名所である足利学校に到着となります。
この「足利学校遺跡」という看板(石碑?)と向こう側におわす孔子様の像の間の道、
この真正面に再建された足利学校があるというわけなのですけれど、
孔子様の後側に駅で借りた自転車が写り込んでしまっているのはご愛嬌ということで。
学校の敷地に達しますと、まずは「入徳」門がお出迎え。
潜った先の右手で入学手続きをしますと(入場料を払うと「入学証」がもらえます)
新入生オリエンテーションというわけで、ビデオによるガイダンスを受けるのですね。
(別に見なくても、叱られはしませんが…)
晴れて入学となりますと、次に「学校」門を潜ります。
ちなみに「学校」という言葉は四書五経のひとつ、「大学」の冒頭部から引いたのだそうで、
日本で「学校」と言えば足利学校きりなかったという、いわば日本にとっては新語。
だんだんと足利学校の凄さ(?)が分かってくるような気がしますですね。
先ほどの足利学校遺跡の碑から入徳門、学校門とまっすぐに一直線になっておりますが、
そのままさらに進んでいって大成門を潜りますと、孔子廟に行きあたります。
何でも明の時代の聖廟を模して造られたものとのこと。
暗い廟内には孔子像が安置されていますが、
ちと目つきが変?というと孔子様に叱られそうです…。
ちなみに足利学校のある辺り、足利市昌平町という地名でして、
すぐにお気付きかと思いますが、東京・御茶ノ水駅からほど近い湯島聖堂の
かつての名前が昌平坂学問所でありましたですね。
いずれも孔子が中国・魯の国の昌平生まれというところにあやかって付けられたわけですが、
足利学校にある戦国の世に活躍した軍師養成機関のようなイメージはむしろ後付けで
開学当初から基本は中国の先哲の教えに学ぶことにあったからこそ
諸子百家のチャンピオン(?)孔子を祀っているということでありましょう。
ところで、開学と言いましたけれど、日本最古の学校と言われながらも
実は足利学校がいつできたのかは詳らかになっていないのだそうです。
いくつか説があるようですけれど、その中に小野篁が作ったとする説があることからすれば、
小野篁が生きた時代(802~853)の創建なのでしょう。やっぱり大層な歴史です。
ひとつの説ではありますが、孔子廟の中には小野篁像も安置されておりましたですよ。
さて、孔子廟を後にして校舎の方へと向かいますと、
こちらはやおら萱葺屋根の古風な造り、「方丈」と呼ばれています。
ここ足利学校では、今でも年に一度
釋奠(せきてん)と呼ばれる孔子とその弟子たちを祀る儀式が行われているとのこと。
ただ伝統を受け継ぐという点では年に一度の釋奠に留まらず、
折に触れて論語素読の会なども行われているようす。
これはその準備でしょうか。
ただし、これは現代のイベントでありますから、
実際にここで学んだ学生たちの学習風景とは違うわけでして、こんなふうですね。
当然に座布団宛がってなんつうことはないわけで。
こう言っては何ですが、およそ寺子屋の雰囲気でありますね。
かつて「学徒三千」とも言われた足利学校だけに規模は大きかったのでしょうけれど、
学習形態としては素読を基本に、後の寺子屋とあまり変わりがなかったのかも。
実際、江戸期になって寺子屋や何々塾といった小さな教育機関が浸透するにつれ、
足利学校の栄光は過去のものになっていったようです。
また、先に触れましたように軍師養成機関としての側面にしても、
後から取りいれられた易学と兵学の伝授は江戸の天下太平270年の中では
無用とまでは言わないものの、必ずしも大きな需要ではなくなっていったことでしょう。
そんな中で足利学校は忘れられ、打ち捨てられ廃校になってしまうわけですが、
かつて学校に集められた多くの漢籍を継承して、現在にも受け継がれているのが、こちらです。
遺蹟図書館と言われる建物で、この建物自体は1915年に完成したものとのこと。
孔子廟や方丈とはまた違ったレトロ感を醸していますけれど、今でも現役。
館内開架には足利市、足利氏関連の書籍がたくさんありましたし、
史料を利用しての展示なども行われているのですね。
ところで、学校らしい言い伝えらしきことを最後に。
図書館の向かいだったと思いますが、大きな松がすっくと立ち上がっておりました。
「字降松(かなふりまつ)」と呼ばれる一本の松。
謂われのほどを解説板から引用してみるとしましょう。
…学生がよめない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを枝につけておくと、和尚がふり仮名をつけてくれたので、誰れいうとなく字降松と呼ぶようになり、遂には町の人々までこの松に教えをうけたという…。
和尚というのは足利学校七世庠主(今の校長先生でしょうか)であった玉崗和尚とのこと、
普段は厳しいけれど、隠れたところで学生に手を差し伸べる和尚のお人柄が偲ばれます。
が、町の人たちの質問にまで答えるようになると、大変でしたろうなぁ。
まあ、こうしたことも通じて足利学校は人たちに愛され敬われることにもなったのでありましょうね。