静岡駅 に着いたとたんにいくらかではあっても東京方向に戻るってことには

「なんだかなぁ…」の気がしないでもない。


そこで、前に静岡県立美術館に行ったときには

鈍行でもって(こないだ行った蒲原までと同じ経路で)草薙駅からアプローチしたのですけれど、今回は「あれもみたいかな、これもみたいかな」とすっかり風呂敷を広げた中から、

天候、疲れ具合、気分に応じて立ち寄り先を取捨するという考えでして、

とにかく早めに静岡駅には着いておこうとすると新幹線となってしまうわけです。


ま、ここら辺の事情はともかくとして、辿りついたのは静岡県立美術館。

「佐伯祐三とパリ ポスターのある街角」展を開催中であります。


「佐伯祐三とパリ ポスターのある街角」展@静岡県立美術館


今回展は、佐伯が大阪出身ということもあってたくさんのコレクションを所有しているらしい

大阪新美術館建設準備室(この美術館、いったいいつできるんだろう?)の所蔵品が中心。


となると、佐伯の没後80年(2008年)に開催された回顧展@大阪市立美術館で見た作品と

かぶりまくりだなぁ…と思ったのですが、作品は不変なるも、見る側(自分のことですが)は

この間の数年を経たことで見る目が変わってもいましょうし、

また同時に展示されるサントリー・コレクションのポスター作品にも興味がありましたので、

ここはやっぱり寄っておこうと思ったのでありますよ。


で、その佐伯作品を展観してですね、今回一番に思ったところは

佐伯が自分の作品スタイルを確立しようとして陥ったと思われる苦悩ということになりましょうか。


佐伯は30歳で亡くなってしまうわけですけれど、

改めて生い立ちを見れば野球少年として活躍していた時期があった。


つまり、体格もよく健康的なイメージが湧いてくるわけですが、

一般には佐伯の肖像写真を見る限り、頬がこけて痩せさらばえた姿しか浮かばない。


これは絵を志して、現実的な貧しさや苦労も確かにあったにせよ、

やはりヴラマンクの批判に衝撃を受けて以降、楽しさ半分であったかもしれない作品制作が

佐伯には闘いの場に変わったからなのかもしれません。


年代順に作品を見て行くと、

佐伯の惑いが痛く突き刺さるばかりであるような気がしたものです。


近い年代で影響を受けあった画家たちで、

やはりパリの街角を描いた荻須高徳や大橋了介らの作品が佐伯作品と混じると

パッと見、どれが誰の?というくらいなところがあろうかと思います。


ですが、荻須作品では人物の描き方に佐伯より暖かい視線が感じられますし、

大橋作品はとても客観視しているのか、その分平板にも見えてしまうような。

これに比べて、佐伯の臨み方は(言い方は悪いですが)かなり戦闘的にさえ思えるのですね。


パリ街角の広告を描いて、あの金クギでガリっとやったような文字からも

改めてそんなふうに思ってしまいましたですよ。


生前の佐伯は友人たちに自分の作品を示して、

「この絵は純粋ですか?」と問いかけることがしばしばあったのだとか。


この「純粋」なるものの真意は分かりませんけれど、

「誰のスタイルでもない佐伯流の純粋さがありましょうか?」

ということでもあったのではないですかね。


佐伯にとっては、ヴラマンクの影、そして作品を見て行く限り想像されてくる

セザンヌやキュビスムなど先達の影を乗り越えられたのかどうか、

時には寄りそうことに回帰もし、また時には大きく離れ、

そうした試行錯誤を繰り返し続けたのでありましょう。


…という面ばかりを見て行きますと、いささか息苦しくもなりますので、

最後にちと別の面を。

ユトリロも含めて、パリの街角を描くとなると、どこを描いても絵になる風景で

どれも何となく「いいじゃん」と思えなくもないですが、今回佐伯のこだわりを感じたのは

建物の壁はもちろんながら、それよりも窓の描き方でありましょうか。


「佐伯祐三とパリ ポスターのある街角」展フライヤーより


建物によっては壁面に窓がたくさん穿たれていて、鎧戸が閉ったり半開きだったりしますが、

これの描き方が結構みなぞんざいというか(佐伯にもそうしたものはありますが)、

そんな中にあって佐伯はかなりの立体感、奥行き感を持って描いたものがあり、

これには目を瞠るところでもありますね。


どちらかと言えば、ポスター展にこそ期待てな気もしていたわけですが、

(もちろんこれも面白かったですが、残念ながら展示替えが予定され、展示は多くない)

見るたびに見る側の受け止め方の違いにも気付くという点で、

立ち寄ってよかったと思える展覧会でありましたですよ。