かなり観光を意識しているふうな由比宿 に比べて、興津宿 がどうかという点に関しては
すでに見て来たところで想像いただけるのではないかと思いますですが、
そも興津に関する観光情報はかなり乏しい中にあって、

なぜに興津にも立ち寄ったかと言いますれば、江戸期に宿場町としての繁栄を誇る遥か以前、

それこそお隣の由比宿あたりとは比べ物にならない歴史的な背景のあることを

たまたま知ったからなのでありますよ。


何せその歴史的背景とは奈良時代のことでありまして、
律令による中央集権国家を目指した朝廷では、東国の抑えとしてここ興津に、
清見関という関所を設けたのだそうで。


ですから、古来東下りをした人たち、

例えば「伊勢物語」の在原業平、「更科日記」を残した菅原孝標女、
「十六夜日記」を書いた阿仏尼、そして西行法師などもこの清見関を抜けていったわけですね。

清見潟沖の岩こす白波にひかりをかはす秋の夜の月     西行法師

ということで、この清見関の鎮護のために造られた仏堂が始まりとされる

清見寺を訪ねようということで興津にやってきたという次第であります。


で、その総門脇に清見関跡を示すしるべがあったにはあったんですが、
よもやこんなふうに放りっぱなしになっていようとは…。


清見関跡の標


「あらら」との思いを払って、いざ清見寺に!と
すぐお隣の総門を振り仰ぎますと、こんなふうになってます。


清見寺総門前


うむ、なかなか立派そうと思う間もなく気付くのは、総門のすぐ後ろ側を通っている電線状のもの。
なんとまあ、総門のすぐ裏側を東海道線が走っているのでありますよ。


清見寺には東海道線を跨いで


参道があたかも東海道線の跨線橋のようではありませんか。
一碧楼水口屋ギャラリー の受付の方に聞いたお話どおり、
海と山とが狭まった興津に東海道線を通すには

長い歴史を持つ古刹もこんなことになってしまったのですなあ。


ちなみに話はちと後戻りしてこの総門ですが、1651年(慶安6年)に建立されたものとあって、
さすがにこれをぶっ壊してしまうわけにもいかなかったんでしょう。


扁額には「東海名區」と書かれたおりますが、これは朝鮮通信使の手になるものだとか。
船で大阪にたどり着いた後、そのまま淀川を遡って淀宿(淀城があったところですね)からは

陸路をとって東海道を進み江戸に至るのが、江戸期の朝鮮通信使のルートだったようですが、
興津の景観には外国からの使節の人たちも脚をとめたのか、

こうしたものが清見寺に残されているのですね。


朝鮮通信使による清見寺総門扁額


されど、よおくみれば古いだけあって門自体も傷んでいるようですし、
何より侘びしくなるのは屋根に渡された雨樋がひしゃげたままにされていることでしょうか。


しかしまあ、さぞかし立派なものではと想像していた古刹のありようは、
これくらいで驚いてはいけんということに程なく気付くわけでして、
まず境内が妙に狭くて、何だかごちゃごちゃしている。

清見寺境内


東海道線に敷地が削り取られてしまった故かもしれませんけれど、

そうしたところになまじ由緒あるお寺さんだものですから、

いろんな石碑や何かがそこここにあるのも、ごちゃごちゃ感を強めてますね。


その中のひとつにはこのような石碑が。


咸臨丸記念碑@清見寺


「咸臨丸記念碑」というものだそうですが、あらら、また案内標が壊れたまま…。

と、これはあっちこっちがその状態なのでともかくも、

書かれている言葉は「食人之食者死人之事」、そして「従二位榎本武揚書」とあります。


字面だけからすると、何だかモンテーニュ「エセー」に出てくる
人食い人種の記述なんかを思い出してしまうかもしれませんですが、
「人の食(しょく)を食む者は人の事に死す」と読むのだそうで、
幕府の軍艦たる咸臨丸では、幕府の禄を食んでいた乗組員たちは

それこそ幕府の滅亡に殉じた…てな意味になるようです。


戊辰戦争 にあたって咸臨丸は清水港で新政府軍の砲撃を受け、

多くの死傷者を出すも、逆賊としてほったらかしにされた乗組員の遺体を丁重に葬ったのが

清水次郎長であったことはかつて駿豆紀行で清水を巡った際に知り得たことでありましたが、
そうした経緯でここ興津の清見寺に碑があるのですなぁ。


また、ちと山側には五百羅漢がさまざまな顔つき、しぐさで広がっていますけれど、
こちらは島崎藤村作「桜の実の熟する時」の最後の場面に登場するのだそうですよ。


五百羅漢@清見寺


さらに(五百羅漢を登りつめても門が閉ざされ、進めないので)

隣の墓苑側から少々山に分け入りますと、「琉球國具志頭王子之墓」に至ります。


琉球國具志頭王子之墓


1610年(慶長15年)、江戸へ参府する琉球国王一行に加わっていた具志頭王子は、
駿府までたどり着いたものの病を得て客死、清見寺に葬られたのですが、
以降、琉球使節が江戸へ赴く際には必ずここに立ち寄ることをならいとしたそうな。


他にも徳川家康 お手植えの梅とか、高山樗牛の碑とかがあり、
また堂内にもさまざまな書画骨董類がたんと置かれてありましたですが、
どうも残念なことにどこをとっても裏ぶれ感満載。

壁も剥がれたままで…


あんまりだと思ったものですから、寄進のつもりで
「香りがいい」との謳い文句のついたお線香と寺の案内書を購入してきたですよ。


てなこと言ってると惨状ばかりが目に浮かんでしまうやもですが、

立派なところもご覧いただこうかと。


ひとつは仏殿で、1842年(天保13年)再建とありますから、

さほど古くはないですが、堂々たるもの。


清見寺仏殿


中には釈迦如来坐像を始めとした木像に並んで足利尊氏 像も安置されているようですけれど、
尊氏は、日本十刹のうち七位の官寺に列するほど清見寺に厚い信仰を寄せていたのだそうです。


もうひとつ、立派だなというのが鐘楼でしょうか。


清見寺鐘楼


そして、ここの梵鐘にも逸話が残されておりまして、
豊臣秀吉が小田原攻めに絡む前哨の伊豆韮山 城を攻めた際に、

この梵鐘を陣鐘に用いたのだとか。


鐘自体は1314年(正和3年)に鋳造されたということですので、

まさに戦火の中で使われた鐘なのでありますね。


とまあこのように、歴史の記憶の数々が刻み込まれた清見寺は

修繕が現在進行形のようですけれど、それがどうも遅々としたものとも想像してしまうのは、

やはり興津が通過点になってしまった…ということに関わるのかもしれませんですね。