…ということで、石川島資料館 を訪ねてみたわけですけれど、
今では中央区佃という地名になっている石川島、
そこまで行って資料館だけでもないわけで、
かつては隣接地、今や一体化しているともいえる佃島界隈をぶらり歩いてきたのでありますよ。

(と言っても、資料館同様訪ねたのは少々前ですので、雪はかけらもありません)


超高層ビルがうじゃうじゃ建っているといったかつての石川島、今の佃2丁目、3丁目に対して
古い街並みやコミュニティーが残されているとしてヴェネツィア水都国際会議で

表彰されたこともあるという佃1丁目から歩き始めることに。


佃小橋を渡って


高層ビルを背景に置く赤い欄干の佃小橋を渡ると
狭い路地を挟んで、民家が立ち並ぶという昔ながらの町の姿を見せてくれる一角に突入です。


佃島の風景


かなり年代物なんだろうなあというお宅があるかと思えば、
今ではとんと見かけなくなった汲み上げポンプがちょこなんと現れる。
今でも現役のようですね。


佃島の汲み上げポンプ


そんなふうにぎゅっと軒の詰った屋並みの奥にひっそりと住吉神社がありました。
何でも摂津国一宮である住吉大社から分祀を受けて…って、
住吉神社が住吉大社から分祀されるは当たり前なのかもですが、
実は佃島と摂津とは切っても切れない縁であるようで。



住吉神社@佃島


時は天正10年(1582年)、堺に出かけていた徳川家康のもとに本能寺の変が急報されます。
世の急変に安閑としてはおられじと家康は大阪に向かうも、途中に出水があった立ち往生。
この時に舟を出して家康一行に力を貸したのが、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)の
漁師たちであったそうな。


討たれた信長とは同盟関係にあった家康は、その後鈴鹿の山中をくぐり抜けるようにして
何とか居城の浜松へと帰りついたわけですが、これも佃村の漁民たちの手助けあればこそ。


恩義に感じた家康は江戸に幕府を開くにあたり、彼らを招いて

幕府の「御菜御用」(菜魚の献上役)とし、1613年には「網引御免証文」を与えて、

江戸近海での漁に特権を与えたのだとか。


その摂津国の佃村からやってきた漁師の住まいにあてがわれたために、
佃島の名が付いたというのですね。ですから、神社も摂津国から呼んできたと。

で、こうした謂われのある住吉神社で見かけたものですけれど、まずはこれ。
いかにも漁業に関わる町であったことを偲ばせるものでもあろうかと。


鰹塚@佃島・住吉神社


「鰹塚」というものですが、

江戸の頃から鰹節問屋は住吉神社を守護神として信奉してきたのだそうで、
問屋の組合では「鰹の御霊に感謝」すると同時に「豊漁」をも祈願して、

1953年(昭和28年)に建立されたもの。


「鰹の御霊とは、こりゃ大袈裟な…」とも思ったですが、

「大宝律令」(701年)や「養老律令」(710年)に「堅魚」としてカツオの記録が残るくらいに

昔々から食されて来たとなれば、やはり「御冥福を…」でしょうか。


五世川柳 水谷緑亭句碑@佃島・住吉神社


お次はこちらの「五世川柳 水谷緑亭句碑」です。
柄井川柳を初世として5代目、佃島の名主でもあった水谷緑亭が川柳を受け継いだそうですが、
歴史的経緯よりもここは彫られた句に注目ではないかと。

和らかでかたく持ちたし人ごころ

ついつい二度続けて詠んでしまいたくなるような気がしますのは、
「江戸の人情、ここにあり」てなふうに思えてくるからでありましょうか。


ところで特段の謂われが記されていたわけでもないながら、

社殿のお隣に垣間見えた建物が気になる。
レンガ作りの土蔵のような建物なのですね。


レンガ造りの土蔵?


おそらくは…とこれは想像ですが、
東京大空襲といった戦火を掻い潜って今に残された建物なのかなと思ったり。
さりげなくも味わいあるものでありましたですよ。


さて、住吉神社の鳥居を抜けて外へ。
まっすぐに進みますと隅田川に行き当たりますが、
その堤防前に置かれているのが「佃島渡船」の碑であります。

佃島渡船之碑


今ではいくつもの橋で繋がれていますけれど、
かつては歴とした島であるわけですから、渡し船の便はどうしても必要なところかと。
もしかしたら佃島とともに渡船も…という長い歴史があるのか、
この石碑自体、造られたのは1927年(昭和2年)だそうでありますよ。


先に訪ねた資料館にも

工員たちが石川島の工場への通勤に利用していた様子が示されてましたけれど、
廃止となったのは1964年(昭和39年)にできた佃大橋で対岸と結ばれたことによってだそうです。


1964年は東京オリンピックの年ですから、この時期の東京大改造の一環だったのでしょうね。
石碑のところから隅田河畔に出た光景は今ではこんなふうになっています。

佃大橋


ところで、振り返ってみれば石碑近くにも古風な建物を発見。
掲げられた木の看板には「元祖佃煮 天安」とあります。


元祖佃煮 天安


佃煮とはもはや地域の特産品というより一般化しているのでしょうけれど、
これも佃島の漁師たちが保存食としていたものが広まり、故に「佃煮」と(諸説あるようですが)。

ちなみにこのお店は1837年(天保8年)創業とのこと。
ちとつまんでみたいところながら、ご覧のように閉まっておりました。


そういえば昔「てんつくてん」という佃煮屋を舞台にしたホームドラマがありましたっけね。

桜田淳子やら森昌子やらが出るというので大層評判に…と、見たことないですが。


と、これから隅田河畔を歩いて石川島からさらに先へ…と進んで行ったわけですが、
どうも佃島だけで十分長くなってますので、続きは改めてということで。