戸田の造船郷土資料館
を訪ねたことを書いた折に、
幕末に来航したロシア使節の船・ディアナ号が沈没してその際代船ヘダ号を作った技術が
石川島造船所にも受け継がれた…てなことを言いましたけれど、
かような歴史的なあたりが石川島造船所転じて今では株式会社IHIとなった企業の中では
どんなふうに受け継がれているのだろう?と思ったのですね。
そこで同社HPで沿革なぞを覗いてみたところ、
さすがにこれほど細かい点にまでは触れていない…ですが、
同社発祥の地である石川島(現・中央区佃)にIHIの資料館があることを知りましたので、
出掛けてみた…というわけであります(出かけたのは少々前なので雪はありません)。
資料館HPで見た館内レイアウトの印象からすると
「ずいぶんと小さな…」という展示スペースでしたけれど、
石川島(そして隣接する佃島)の歴史と、そこに設立された造船所から現IHIに至る歴史が
さささっと概観できるようになっていて、なかなか興味深いものではありました。
かつての地名としての石川島は、佃島と繋がることによってすっかり飲み込まれてしまい、
歴史の中にのみ残されることになってしまってますが、
元々からしても佃島の方が歴史が長いので仕方のないことなのかも。
佃島のことは後で触れるとして石川島でありますが、
江戸時代の初期、1626年に幕府の船手頭を担っていた石川重次という人が
隅田川河口の島を拝領して屋敷を構えたことから、石川島と呼ばれるようになったのだとか。
元から島があったのではないか…ということですが、
IHI資料館では「石川氏が築いた島」と解説されていたことからすれば、
佃島のすぐ近くに岩礁のようなところをも少し島然とした形にしたということかもですね。
とまれ、名前の由来はそういうこととして、
その名前の主である石川氏は1792年に移封となって主人がいなくなり、
人足寄場とされ、やがては懲役場・監獄署として使われたそうな。
ちなみにこうした島の機能は維新の後、1895年に巣鴨に移されますけれど、
ここが第二次大戦後にGHQに接収されて「巣鴨プリズン」と呼ばれたりしますですね。
もひとつちなみですが、印象として石川島のこうした歴史を振り返ると
どうにも荒くれ者や犯罪者ばかりが巣食っていた、押し込められていたと思われますが、
寛政の改革(松平定信の老中在任期間である1787年~1793年頃)の折には
火付盗賊改役の長谷川平蔵(鬼平として有名)が建策し、
石川島に再犯防止のための更生施設を設けていたのだそうな。
単に時代劇の主人公というだけなく、ちと鬼平が気になるところでありますけれど、
ここでは石川島のことに戻るとして、かように使われてきた一方で…というお話。
黒船が来航したまさにその年、
1853年に幕命を受けて水戸藩が石川島に造船所を設立します。
洋式を真似て?帆走軍艦「旭日丸」を建造しますが、やはり資料館の解説に曰く
ややバランスが悪く「厄介丸」とあだ名されたと言いますから、
付け焼刃ではもの事はうまくいかないということでしょうか。
やがて明治となった1876年、石川島造船所は日本で最初の民営洋式造船所となり、
1889年には渋沢栄一らの出資を得て会社組織へ転換、
その後は日本の造船・重工業に担い手として成長していくわけですね。
(つうことはずいぶんと兵器も作ったことでありましょう)
石川島自体での操業は1979年に工場が全面移転したことで終わりを告げ、
跡地には超高層ビルがうじゃうじゃ(とは言い過ぎか)建ち並ぶという様変わりを
見せてますですね。
…と、資料館で見たこと、知ったことを書き連ねてきましたけれど、
そもそもの疑問(ヘダ号との関連がどのように伝承されているか)には
どうやら答えが見当たりません。
最初に言ったとおりに小さな資料館ながらじいっくり時間をかけて見ていたものですから、
スタッフの方には「よほど興味があるんだね、この人」と思われたのか、
「何でしたら、書棚の中の資料も手にとってご覧いただいてもかまいませんよ」と
声を掛けられたですが、まさに「これ幸い」とばかりIHIの社史を見せていただくことに。
株式会社以前の前史のような部分ですけれど、
ページをあっちこっち繰って見ていると「お、あった、あった!」というのが、次の部分。
予めお断りはしてないですが、該当部分を引用させていただくとします。
安政元年12月に発生した東海地方の大地震による被害で、プチャーチン艦隊の「ディアナ」が沈没した事件は、石川島造船所に洋式船の構造に関する貴重な技術をもたらした。というのは、その代船が伊豆の君沢郡戸田村でつくられることになり、石川島から船匠たち数人が派遣されたからである。代船「ヘダ」は翌年3月に完成した。この時習得した竜骨構造技術をもとに幕府は長さ81フィート、幅23フィート、深さ10フィートの木製2本マストのスクーナーの標準型設計“君沢形”を定め、10隻の建造計画を建てた。そのうちの4隻は石川島造船所で建造されている。
ヘダ号建造から引き継がれた「君沢形」なる設計をもとに、
石川島造船所で船を建造しており、そのことが社史にも載っておりました。
郷土史が企業史に繋がりましたですね。
研究者が探究するような大それたことではありませんが、
歴史探訪の面白みでもあろうかと思ったりしたものでありますよ。