友人から「行けなくなったから」と譲り受けた日フィルの演奏会チケット。
めったに聴けないプログラムなだけに有難く頂戴し、出かけてきたのでありました。
そのプログラムと言いますのが、スクリャービンのピアノ協奏曲、
そしてショスタコーヴィチの大作、交響曲第7番「レニングラード」というもの。
スクリャービンの方は、いかにもという妖しげな響きながらも
それらしいロマンティシズムを湛えた作品でありましたけれど、
真後ろのお爺さんによるいびき寸前の寝息を誘発するのも詮無きことかなとも。
これがショスタコーヴィチとなりますと、その炸裂する大音響には
さしものお爺さんもお目目ぱっちりだったのでは(後ろですから分かりませんけどね)。
この、今ではサンクト・ペテルブルクに地名が先祖返りした町の名を冠したシンフォニーは
第二次世界大戦の折、独ソ戦の開始にあたってドイツ軍の包囲にさらされる中、
まさにその町で書き始められたのですね。
900日にも及ぶ過酷な籠城戦でレニングラード市民も数多犠牲になったわけですが、
ソ連(当時)が誇る高名な作曲家ショスタコーヴィチが同志を鼓舞する新作を書いていることは
それだけで有効なプロパガンダ と捉えられるのは必定でありまして、
実際に第3楽章まではレニングラードで書いたものの、
仕上げの第4楽章を書くにあたってはソ連政府の手によって疎開地へ移され、完成を見るという。
こうして出来上がった交響曲は、演奏時間にして70分ほどを要する
マーラーやブルックナーの作品に匹敵するような超大作となれば、それだけでも、
ともすれば意気阻喪しそうな国民に大きな影響を与えることになったものと想像されなくもない。
そうした背景を踏まえて考えれば、この交響曲はやはり「レニングラード」であって、
町の名前が今ではサンクト・ペテルブルクとなっているからと、
その名を改めるのは不自然であろうとは思うところです。
が、その規模の大きさ、咆哮するオーケストラ…といった表面的な国威発揚要素は
確かにそのように思えるものの、ショスタコーヴィチの本当の思いは奈辺にありやと思うのですね。
いささか短絡思考とは承知の上ではありますが、
やはり書き始めたる第1楽章(やはり一番有名な部分ですが)に
思いはあるような気がしないではない。
かなり厳かな出だしで始まるものの、やがて小太鼓のリズムに乗って
「侵攻のテーマ」とも言われるメロディーが執拗に繰り返されるのですけれど、
このメロディーというのが何とも人を食ったものなのですよね。
先程のような背景を持つ曲となれば、そこに悲惨、凄惨、残酷極まる戦争を暴く…
みたいな要素で固められていてもおかしくないところが、
この妙にあっけらかんとした音楽はどうしたことでしょう。
さまざまに繰り返される中では、伴奏のコントラバスに低く蠢く不穏な響きを聴き、
このくぐもり感こそ戦争かぁ…みたいな気にもなる一方で、
高音のピッコロによってメロディーが奏でられる部分では
「ああ、これはぁ!」とは、他にも思う方がおいでのはず。
「ああ、これはぁ!宮さん宮さんではないか!」と。
かなり強引な持っていき方と思うかもしれませんが、
戊辰戦争 で進軍する官軍のイメージを体現した「宮さん宮さん」(の前奏)は
あたかも祭囃子のようで、とても会津その他で敵味方ともにたくさんの死傷者が出た
戦時の音楽とは(今では)思いにくいものがあるわけで、それを想起させるのでありますよ。
ですが考えてみれば、戦争にもそうした賑々しい、晴々した(といっていいか)側面はあって、
シチリア島に上陸以降、連合軍のイタリア半島北上 を迎える市民たちの熱狂、
ノルマンディー以降、やはりベルギー、オランダを解放していった連合軍を迎える市民の歓呼、
これも状況としては戦時に軍を進攻させていることには変わりはないわけです。
この部分だけ取り出せばこの進攻は決して否定されるものではないながら、
そうしたことがあっても、そも戦争さえなかりせばを忘れてはいけんよ…と、
そのときはとても言えないけれど、本当のところはそういうことなのではないかと。
こうしたアイロニカルな見方を、
現在進行形でナチスの脅威にさらされていたレニングラードにいながらにして
ショスタコーヴィチは忘れてなかったのではないかと思いますですね。
だからこそ、この曲の第1楽章にこうした音楽がおかれたのだと。
さらに穿って考えるならば、目前の危機はナチス・ドイツではあるものの、
これが時期を変えたならばスターリン体制そのものがそもそもの危機であることを
被せていたのではないかとも思ってしまいます。
でなければ、やはり徹頭徹尾、凄絶な響きの音楽になっていて、
それだともしかして後々ヤバいことになるかも…とも深読みまで働かせていたのかもと。
とまあ、大熱演の日フィルの演奏を聴きながら、こんなことを考えていたとなれば
演奏をあんまり聴いてなかったんでないの?との疑いを招くところですけれど、
少なくとも住いでCDを聴いていたならばついついヴォリュームを下げてしまうようなダイナミクスに
身を浸すことができただけでも得難いものだと思っておりますですよ。