はらはらと雪が舞ってはいるものの、少しも積もっているふうではなかった新潟市から

戻って一夜明けると、あたり一面が真っ白に。

どっちが雪国のイメージに近いか、おやおや…と思ってしまいましたですが、

それはともかく。


出張から帰ってきたら伊豆富士見紀行 を終結に向けて…と言っておきながら、

ちょっとまた時間を巻き戻して寄り道です。


この間は清春芸術村 のことをいささか端折り気味にして、

こっちの方が長めに書くかぁ・・・という気がしないでもないですが、

ついでに立ち寄った北杜市郷土資料館のことを忘れないうちに。


もしかしてあらゆる市区町村にあったりして?とも思われる郷土資料館ですから、

毎度毎度覗いていては切りがないとも思うところですけれど、

清春芸術村に行ってみたらば、斜向かいにあったとなればやっぱり寄ってしまいますですね。


展示の方はざっくり言って郷土史の話と昔の生活用品が並んでいるという

やっぱりどこにでもあるものではありますが、そうした中で「ほお~」「ふ~ん」と思ったところを二つほど。


ひとつは信玄公旗掛松事件という裁判のお話。

JR中央本線の日野春駅近くに、かつて高さ15m、木の周り7mもの松の大木があったそうな。

古来、土地の人々にとってはシンボル的存在の古木であって、

武田信玄 が合戦に出向く際、この松のところで休憩を取り、旗を立てかけたという伝承から

「信玄公旗掛松」と呼びならわされてきたという。


1896年(明治29年)、現在の中央本線となる八王子から塩尻までの鉄道工事が始められますが、

このときに日野春に駅が作られることが内定し、やがて線路敷設計画の地図なども明らかにされます。


これを見てびっくりしたのが日野春駅近辺の土地の地主であった清水倫茂という人。

何しろ旗掛松の脇、2mくらいのところに線路が敷かれることになっている。


このままで近在の者が信玄公ゆかりとして大事にしてきた松が、

蒸気機関車の出す煙、水蒸気、振動で枯れてしまう…と計画の見直しなどなどの請願、上申を

再三にわたって行うも、鉄道院(要するに国)は問題なしとして工事を行い、

1904年に日野春駅は開業し、蒸気機関車が行き交うようになるのですね。


比較的低い甲府盆地を出て徐々に標高の高いところへ向かう途中駅。

日野春では機関車に給水を行う必要から、普通の停車駅よりも長い時間停まっており、

その分旗掛松も余計に長く水蒸気や煙に曝されることになったようです。


結果として10年後の1914年(大正3年)、松は枯死してしまう。

「だから、言わんこっちゃない!」と怒り心頭の清水倫茂は

お上(鉄道院)を相手に訴訟を起こすのでありますよ。


一審、控訴審、上告審のいずれの結果も国の敗訴。

この時に原告弁護側が主張したのが「権利濫用」という考え方であったそうな。


国の側は鉄道敷設という公共性の高いことをやろうとしてるのに「文句あっか!」状態でしたろう。

ですが、簡単に言うと「権利があるからといって、その権利をどんなふうに使ってもいいわけではない」

という考え方に照らすと、国の側は地元に意見に全く耳を貸さなかったこと否とされても仕方が無い。


こうしたことから信玄公旗掛松事件は、日本の公害裁判の原点とも言われ、

後の民法(1948年)に権利濫用が成分化されるまでの間は同様の事例において

旗掛松事件の判例が使われ続けたのだそうでありますよ。


時に、この事件で大審院(現在では最高裁)の判決言い渡し期日が何度も延期されたのだそうです。

当時は合議制であったことから担当の判事間に意見の食い違いがみられたとされますが、

国からの圧力もまたあったようですね。


三権分立ではあっても、政府の側からすれば(欧米を真似たものとはいえ)

司法も自分たちが作ったんだから「言うこときけよ、こっちは大局的見地でものいってんだ」と

横槍を入れたんでしょう。


ここで思い出されるのは、大津事件(来日したロシア皇太子をきりつけた事件)の判決でしょうか。

国の側ではロシアとの関係悪化を恐れて犯人を死刑にせよと大審院に迫ったわけですが、

当時の刑法をどう捻っても未遂に終わった事件で死刑にはできないと大審院がつっぱねた。


この2件だけで明治・大正期の司法は素晴らしかったとまでは言い切れないものの、

少なくともここではいずれからも司法の独立が担保されているように思われなくもない。


で、また現在と引き比べるのがどうか…とは思いますが(今でも当然に三権分立ではありますが)、

立法も行政もいったいどういうところを向いて行われてるんだか…という状況にある中、

さらには司法に関してもその信頼性に欠如が感じられるとしたら、如何ともしがたいわけで。


少なくともいい方向にあるとは思えないときに、

こうした話に接すると「要は人の問題か」とも思ったりしてしまいますですね。


と、二つの話といったひとつ目で長くなってしまいましたのでささっと行きますが、

もうひとつも鉄道の話。


今ではJR小海線としてある路線は当初、佐久鉄道という私鉄としてスタートしたわけですけれど、

この佐久鉄道という会社、相当に遠大な計画を目論んでいたようなのですね。


日本横断鉄道の敷設。日本海側(新潟)と太平洋側(清水)を鉄道で結ぶというものです。

小諸からしばらくずっと南下している線路は途中から小淵沢と結ぶために南西に向かいますが、

当初の構想ではそのまま南下を続けて甲府に直結し、さらに現在の身延線につないで太平洋へ・・・

となっていたそうでありますよ。


結果的にこの計画は潰えたわけで、こういう話を聞くとその残骸?が見て取れるてなふうですが、

こういう話もあったのですなぁ。


まあ、こういう知らない話に出くわすことを考えても、

行く先々の、たとえ小さな施設でも郷土資料館には立ち寄ってみると面白いかもですねえ。

(あ、ちなみに北杜市郷土資料館はみょ~に(?)きれいな建物ではありました)