…ということで 、スタジオ・ジブリの映画「風立ちぬ」を見てきました。


映画「風立ちぬ」


でどうだったかということなんですが、「ん――――――――っ!」という感じ。
何をどういうふうに語ったらいいのか、困るというか何というか…。

ありていに申し上げますと、いちばん印象に残ったのは最後、
ユーミンの「ひこうき雲」かなと思ったり。


ジブリでは以前にも、例えば「魔女の宅急便」でユーミンを歌を使い、
コラボレーションとしての相乗効果を挙げていたのではないかと思うところですけれど、
本作に関しては本編がユーミンの世界に負けてしまってるような気がしますですね。


で「どうしてそうなってしまったのか」なんですが、やっぱり脚本でしょうか。
堀辰雄の世界と堀越二郎の生涯を重ね合わせてひとつの物語化するのに、
こなれが足りないと言いますか、まだまだ熟成させた方が良かったんじゃあないと、
そんなふうに。


すっかり忘れていて、ふいに思い出したんですが、
堀辰雄を初めて読んだときに「この人はすごい!」と思ったのですよ。


月並みな言い方になりますけれど、極薄のガラスで作られた文章とでもいいましょうか。
きらきらとした眩さにうっかり手を伸ばすと、パリンっと砕け散ってしまうような。


たぶん高校生くらいの多感な(?)時期だったと思しきものの、
いわゆる文豪的な文学者とは全く違う、もっぱら感性頼みの作品に感じ入ったものでありました。

が、ここにはそうした世界はありません。


キャラとシチュエーションを借りてきただけではそうはなるはずもないですから、
「風立ちぬ」だからといって堀辰雄と考えるよりは、

堀越二郎の生涯として見ることになりましょうね。


ですが、本人は「美しい飛行機」を作りたいと思い続けながら、
出来上がったものは戦闘機であったということが描かれるわけですが、
これをどう受け止めようかと戸惑ってしまうという。


確かに好戦的と捉えるふうにはできていない。
かといって、反戦的であるかと言えば「そうだ」とも言い切れない。
では、このいずれかに傾かないと描きようがないのかということになりますが、
完全に客観視できるほどに昔話化していない時代のことだという点からしても、
淡々と事実を描くようなことは難しいのではと思わないではない。


吉村昭の小説に「零式戦闘機」という作品がありまして、
いわゆるゼロ戦の開発される状況が克明に書き込まれているのですけれど、
無茶とも言うべき海軍の要求がどんどん付きつけられるあたりを見ても、
軍主導とはいかにやりたい放題であったかを考えてしまいます。

(そうした無茶な条件を堀越ら技師が克服した結果がゼロ戦に結実したとしても)


また、この映画にも出てきますが、
工場で作った飛行機を牛が牽く台車に乗せて飛行場まで運んだ話があります。


後から彼我の物量の差などと言われるものの、

そもそもからして「牛で飛行機、運んでたんか?」と
吉村作品を読んだときには愕然としたことを思い出したのですが、
映画の中では何やらのどかな光景程度に挿入されるエピソードになっていて、
ドイツ・ユンカース社を訪ねた堀越に「ここには牛がいない…」などと

あたかも笑いをとる扱いでもあるかのよう。違和感しきりな部分です。


と、こうしたことを言いながら、
はっきり腐しきれないのは宮崎アニメの映像部分があるからかなぁと。


アニメは子供のために作ることを基本としておられるらしい宮崎監督が
周囲からのすすめで重い腰を持ち上げて映像化したというこの作品。

いっそ堀辰雄の要素を排して「ひこうき雲」というタイトルで…てなことも

方法としてはあったかもですし、放っておいても脚本の方から

「映画化してほしい」光線を放射してくるぐらいに熟成させておれば、
またもそっと違う仕上がりになっていたのではと思うにつけ、

戸惑う一作と言ったらよいのかもしれませぬ…。