先々週でしたか、ジュリアード弦楽四重奏団の演奏会

ベートーヴェンの前衛ぶりに改めて触れたわけですけれど、

これはベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲でありました。


今度はベートーヴェンの若き日の方に思いを馳せてみたいのでして、

きっかけとしては読響の演奏会で聴いてきた交響曲第1番。

1799年から1800年頃の作品ということですので、1770年生まれのベートーヴェンが20代の終わり、

あるいは30代に突入したかというあたりの曲であります。


読売日本交響楽団 フィリップ・ヘレヴェッヘ客演演奏会2013

奇遇にもこの演奏会で読響を振ったのはフィリップ・ヘレヴェッヘ だったという。

手兵であるシャンゼリゼ管弦楽団とコレギウム・ヴォカーレの演奏でモーツァルトを聴いてから

1週間と経たずして、今度はベートーヴェン。

何だか妙に関連性のあるイベントに終始している感がありますですねえ、我がことながら。


ところで、今回のベートーヴェン尽くしの演奏会ですけれど、

ヘレヴェッヘという指揮者の巧さなのか、読響の持ち味をうまく引き出していましたですねえ。

手堅いなぁという印象。ただ、コントラバスを最後列に一列に並べる楽器配置はそうそう接するものでなく、

低音が正面から攻めてくる、いわばスーパー・ウーファー備え付けといったふうでもあったかと。


というところで、交響曲第1番ですけれど、

この若書きの交響曲第1作目を聴いて「やんちゃ」だなぁと思いましたですね。


ちょうどこの間ヘレヴェッヘの指揮でモーツァルトの「ジュピター」を聴いたわけですが、

このモーツァルト最後の交響曲は1788年の作。

そしてつい先日にはFMからハイドン最後の交響曲である104番の「ロンドン」が聞こえてきて、

こちらが1795年の作品。


これらの曲がべートーヴェンの先輩格の手になるものですけれど、

実にかっちりとした構成でもって、素人にも見通しやすいといいますか、

加えて流麗なメロディがウィーン古典派の頂点にあることを感じさせてくれるのですね。


そして、この二人の衣鉢を継ぐ立場にあろうかと思われるベートーヴェンが

少し遅れて交響曲を書き始めるわけです。

先輩の作り上げた遺産に擬える形で・・・と思うところですが、

「やんちゃ」だなと思うのは、擬えているようで「自分はこうしたいんだもんね」ということをやってしまう。


演奏会で第1番の後に演奏された第7番(「のだめ」ですっかり有名になった、あの曲ですが)と比べると、

さすがに後者の頃にはベートーヴェンの独自性がむしろ交響曲の代名詞化してきてもいたでしょうから、

のびのびと好きなことをやっている感があるのに対して、

さすがに第1番の頃には遠慮気味。


ソナタ形式の第1楽章と第4楽章にはちゃあんと序奏を付けていますし、

第3楽章も「スケルツォ」と言ってしまいたいところを作法どおりに(?)「メヌエット」としていますし。

ですが、そんなことにはちいとも騙されませんよね、聴いてる方も。


出来上がった曲を聴く限りにおいて、ハイドンのようなかっちりとして見通しのいい構成やら

モーツァルトのように流麗に淀みなく進んでいくメロディやらとは違うものが展開するのですから。


ベートーヴェンとしても我慢はしたのだろうとは思いますけれど、

そうにも辛抱たまらんと思ったか、先ほどの言ったように第3楽章を「メヌエット」としながらも

典雅な風情に収まらないで「内容的にはスケルツォに近い」(今回の公演プログラムより)ですし、

第4楽章の序奏に至っては序奏自体で遊んでしまっているというか。


それでも「交響曲」という形式には敬意を払ってこの程度にしといた…というところかもでして、

これより5年ほど先んじて作曲されたピアノ協奏曲第1番などはもそっと自由に考えていたのか、

やんちゃな書きように溢れていなるなぁと思われますね。


聴けば聴くほど面白い!と思えるほどでありまして、

第3楽章で唐突にサロン・ミュージック風に転ずるあたり、えもいわれぬものがありますですよ。


後期弦楽四重奏の前衛ぶりにも通ずるところながら、

ベートーヴェンの革新性は若い頃にはやんちゃと思えるようなふうでもあり、

これは根っからのものなのでしょう。


モーツァルトは天才ですけれど、

大きな枠組みへの変化といったところまでの話にはならないのに対して、

ベートーヴェンの枠に収まらず、どんどんぶち破っていってしまうところもまた

天才と言わずして何と言おうといいところでしょうか。


これぞベートーヴェン!的な有名曲もいいですけれど、

あまり演奏機会のない初期作などにもワクワク感をもって耳を傾けてみるのも楽しそうですね。