人付き合いが怖くなるとは、あるがままの自分で他人と接してこなかった末の結末である。
家族主義が濃厚な時代は、上司も教師も”親代理”であったから、気の利く親と同じように、部下や生徒のひとりひとりにいつくしみの情を示した。
豊かな人付き合いである。
それゆえ仲間を出しぬいて・・・という心理は現代ほどには強まらなかったと思う。
真面目に努力していれば上司や教師が必ず認めてくれるという信頼感があった。
ところが今はちがう。
家族主義の希薄化と能力主義の台頭が個人と個人の競争を激化した。
人を出し抜かないと飯が食えないかのような感じが蔓延している。
おちおちしておれないのである。
誰かがなんとかしてくれる時代ではない。
つまり”親代理”がいないのである。
人付き合いも強かな時代である。
「これこれの点をとりました」「これこれのライセンスをもっています」「これこれの仕事をしました」と誇示して認められないことには、うだつがあがらないのである。
競争社会の人付き合い
もっとも、アメリカにくらべると終身雇用制度の日本はずっとよい。
競争に負けたからといって職を追われるわけではない。
自分さえ窓際族扱いを我慢すれば月給はもらえる。
自己保存の本能のゆすぶられ方はアメリカほどではない。
私は海外の大学に留学時代、アルバイトでデパートの掃除夫をしたが、いつくびになるかとびくびくしどおしだった。
私より有能な掃除夫が応募してくれば、一発でおろされることを知っていたからである。
あるいはレイオフのとき、成績のわるい掃除夫がイの一番にくびになるからである。
私に掃除の仕方を教えてくれた黒人青年は、いつのまにかいなくなってしまった。
人付き合いも怖い環境である。
たしかに日本がいくら能力主義といったところでアメリカほどではない。
しかし、戦前とくらべると今の日本はずっと競争が激しくなっていると思う。
特に販売会社がそうだ。
売上が棒グラフになって事務室に貼ってある。
成績のよいものは海外旅行にやってもらえるが、何年たっても叱られてばかりいるセールスマンもいる。
私の知人のセールスマンは、得意先の子どもの誕生日のリストをもっている。
お祝いを欠かさないためである。
競争社会で人付き合いが怖い
毎年そのために5万円はポケットマネーを使っているという。
客をめぐっての競争である。
ぎすぎすした人付き合いである。
それは結局、上司をめぐっての競争でもある。
認められたい欲求は誰にでもある。
問題はそれを悪用して、シャモの喧嘩のように、人間同士を競わせる仕掛け人がいることである。
これでは心の許し合える仲間などできないのが当然である。
心の許し合える仲間ができないと、周りの他人がすべて敵であると思えてきて、人付き合いが怖くなる。
それゆえ、「競争などもういやだ、安心してつきあえる仲間がほしい」こういう声が高まってくるのは当然だと思う。
暴走族などは、競争社会からおりて勝ち負けなしのつきあいをしようじゃないか、という主張だと私は思う。
見知らぬもの同士が急速に親しくなるというのは、よほど寂しいからだと思う。
自分を開く
話を聞くばかりだと相手がだんだん不快になって、嫌になり、それが続くと人付き合いが怖くなってくる。
自分だけうまく乗せられてしまった、泥を吐かされてしまったと思うからである。
そこで相手が自分を開いて答えてくれたていどに自分自身も開くべきである。
「私は一人っ子です」と相手が答えたら、「私は五人兄弟の末なんです」という具合に自分も開くのである。
これを繰り返しているうちに、お互いがどんな人間かだんだんわかってくるから、構えがとれる。
構えがとれるから感情交流もおこりやすくなる。
つまりふれあいに一歩近づくわけである。
したがって自分が開けるていどに人にきくのがよい。
自分はいいたくないことを人にきくのは人付き合いの礼節に反する。
「君の月給いくら?」ときく以上は、自分の月給はこれこれだと答えられるのでなければならない。
一緒に行動する
人と一緒に行動するのもつきあいのきっかけになる。
宴会、旅行、ゴルフ、大掃除など一緒に何かするのである。
スポーツの仲間は、卒業後も兄弟のように仲がよいものである。
寝食をともにしなくても、ある時間を一緒に過ごすことは相互に気心が知れる機会になる。
たとえば教師は休み時間は運動場に出て子どもと遊んだほうが、子どもがなじんでくれるから、クラス経営もやりやすい。
教授は教授食堂に行かずに学生食堂で学生と一緒にラーメンを食べたほうが授業でも討論しやすい。
親しいからラーメンを一緒に食べるのでなく、ラーメンを食べるから親しくなるのである。
人付き合いが怖くても、恥ずかしくても、てれくさくても、砂を噛む思いで一度はしてみることである。
かたちから入る方法である。
ある人に関心がなくても、聞くだけ聞く、一緒につきあうだけ付き合ってみる。
これを実行しているうちに、心の中になんらかの変化が出てくるはずである。
もし何の変化もなければ、この方法は今の自分には合わなかったのだと思えばよい。
そしてちがう方法を実践してみることである。
人付き合いが怖いの克服は行為から心へ
むかしの心理療法は、心をなおせば行為もなおるという考えであった。
たとえば甘えたい気持ち(心)を満たせば、夜尿症がなおる。
恐怖心を除けばどもりが消える、というのである。
ここではそれとはちがう考えに立っている。
行為をなおせば心もなおるという考えである。
病人でも洗面しをすると病人らしい気持ちが減少する。
教授でもジーンズをはくとか、ステテコ一枚になると、少しは話がくだけてくるなどがその例である。
さて、この場合、急激にある行為がとれない場合には、ステップ・バイ・ステップで徐々に行為を変えていくのである。
ステップ・バイ・ステップの中身は自分で工夫するとよい。
例をあげよう。
姑と口もききたくないという主婦がいる。
辛い人付き合いの環境である。
別居するわけにもいかないので、今よりもなんとか気持よく暮らせる方法があったら教えてほしい、というのである。
「今よりなんとか気楽に・・・」というのはどのていどのことかと私は問うた。「今のように無言の行にならないていどの仲になれたらいうことはない」と彼女は答えた。
そこで私は次のようなステップ・バイ・ステップのプログラムを課した。
第一週目。
ものをいいたくないのだから、ものをいおうとするな。無言のままでよい。
無言のままでよいから一日に一回、五分間ほど、一緒に時間を過ごすこと。
たとえば、姑がテレビを見ているなら自分もそばに座って一緒にテレビを見る、姑が食器を洗っていたらそばに行って黙ったまま食器を拭くという具合にである。
毎日どんなことをしたか、小学生のようにメモして、私に報告せよ。
第二週目。
一日一回でよいから姑に何か聞け。「おばあちゃん、今夜のテレビ何を見る?」「おばあちゃん、お昼は何を食べたい?」という具合にである。
これもまたメモして報告せよ。
メモをさせるのは、それが強制になるからである。
強制しないとなまけるからである。
第三週目。
姑に質問を発したあとで、必ず自分のこともいえ。「おばあちゃん、今夜のテレビ何を見る?私は時代劇をみたいけど」「おばあちゃん、今夜何を食べたい?私はさしみが食べたいけど」という具合である。
これもメモさせる。
わざとらしいことをする
この例などはしっくりいっていないものをなんとかしようとするのであるから、かなりの努力がいる。
そんなわざとらしいことができるものか、と反発する人もいると思う。
わざとするのはよくないことである、という前提があるから、そんなことをいうのである。
英会話でも初めはわざとらしい。
芝居でも初めはわざとらしい。
部長になりたての頃はわざとらしい。
デートの初期はぎこちない。
わざとらしいことをするのはよくないことである、という考えこそよくない。
付き合い始めの頃はきくことがないので、わざと天気のことを話題にする。
これは多くの人がしていることである。
わざとらしいことはできないなどといっているから、ふれあいどころか人付き合いもできないのである。
わざとらしいことをどんどんするとよい。
その例を語ろう。
私はA美大で暇になった時期がある。
その頃は時間があったので講演会によく出かけた。
しかし今の東京理科大に移ってからは、なかなかそんな暇がない。
ところがちょっとしたことから四国の教育委員会に出掛けるはめになった。
しかもよろこんで出かけるのである。
「ちょっとしたことから」とは、こんなことである。
あるとき未知の読者から電話があって、私の本を称賛してくれた。
ナルシシズムのつよい私にすればうれしい話である。
人付き合いの怖さから脱出するには、ナルシシズムの克服が必要条件となる。
その後、半年ほどして、研究会のテキストに私の本を用いているとの手紙があった。
さらに半年して研究会のメンバーが著者の顔を見たいといっているが飛行機代は出すから顔を見せに来てくれないかという。
私はすぐこの話にのった。
行ってみると、Uさんという人がタネを明かしてくれた。
一年がかりで彼の計画を実現したのだという。
つまり、ステップ・バイ・ステップで戦略的に私にアプローチしてきたのである。
私はいやな感じがしなかった。
むしろ彼の熱意を感じた。
ところが人によっては、自分もそうしたいのだが、人付き合いが怖いため、手も足も口も動かないのだという人がいる。
心理的距離をとる
人付き合いが怖いという感情から抜け出すには、人との心理的距離をとることが大切である。
人付き合いが怖い人は、心理的距離が近いのである。
物理的距離と心理的距離は違う。
まったく知らない人が大勢いる電車の中で座席に座っていて、隣りに人がいる。
これは、物理的距離は近いが心理的距離は離れている。
これならば、隣りの人が何かしてもほとんど何も影響を受けない。
しかし、例えば、飲み会で、怖い神経質な上司がテーブルの向こう側に座っている。
上司のグラスが空になったタイミングを見計らっている。
これは、物理的距離は遠いが、心理的距離は近い。
上司とピンと張った糸で繋がっている。
上司の言動で大きく左右されてしまう。
物事を客観視する
では、その心理的距離を離すにはどうしたらよいか。
その近道は、物事を客観視することだ。
人から怒られると、ダメなことばかりにばかり目がいく。
特に、社会に出ると、ダメな所を指摘されて、直させ、良いところはあまりフォーカスされないという風潮がある。
ダメなことばかりに目がいってばかりいると自信をなくし、人付き合いが怖くなる。
しかし、実は良いところはたくさんある。
そこに目がいかない。
上司は、悪気があって叱っているのではなく、仕事として叱らなければならないのである。
客観視できない人はそのことに気づかない。
失敗を受け入れる
では、物事を客観視できるようになるには、どうしたらよいか。
それは、失敗を沢山して、全部受け入れていくことである。
大勢の前のスピーチで声が震えることを受け入れる。
何回も大勢の前で声が震えて話す。
何回も大勢の前で過呼吸になる。
それを当たり前だと思い繰り返す。
すると、大勢の前で震えていいんだと、無意識の領域で理解される。
すると、スピーチの時の自己肯定感が高まる。
上司と会食する時、ひと口も食べず、全て残す。
最初は、変なヤツじゃないかと思われるのが怖い。
しかし、次の同じ上司との会食の時も、ひと口も食べず、全て残す。
その次も残す。
その次は、おかずをひと口だけ食べてみて後は全部残す。
その次は、全部残す。
そんなことを続けていれば、残してもいいんだと楽になる。
つまり人付き合いが怖いという感情から解放され、楽になる。
しかし、会食でひと口も食べず全て残すということは、勇気がいることである。
全て残すということは病院で消化器系の入院患者ならザラだが、一般的な会社に勤めるサラリーマンやOLにとってはいかがなものであろうかというジレンマが付いてまわる。
そのジレンマを破っていくには人付き合いが怖い人にとっては大きな勇気がいることなのだ。
無意識の中の恐怖を見つける
デートの時、緊張して食事が喉を通らなくなる人は、まず無意識の中にはどのような動機があるのか見つけることが大切である。
この場合、食事をひと口も食べないなんて変な人→嫌い→フラれる。
という動機が推測される。
この人は、フラれるのが怖いのである。
フラれるのが怖い人と付き合い続けるのは結局、パートナーとして不適合なのである。
本当に、良好な対人関係というのはリラックスして全てご飯を食べることができるのである。
この無意識に気付いていない人が多い。
デートで緊張しすぎてご飯をほとんど食べられず、フラれるのを恐れるのは二人の対人関係の歯車が噛み合っていないのである。
100%自分のせいというわけではないのである。
相手のせいでもある。
恐怖を勇気を持って受け入れるにはまずこの無意識に気付くことが先決である。
人付き合いが怖いというジレンマから解放された後はどんな感じになるのか
人付き合いが怖いというジレンマから解放された後は、自分自身の体で地面に足を着いて生きているんだという、体の根っこからエネルギーが湧き上がってくるような感じになる。
料理も新作にチャレンジしようという気持ちになり、汗を流して運動することも気持ちが良いと感じる。
なにより、他人と真の心の触れ合いができる。
人それぞれの個性が分かり、客観的に距離を操作して他人と付き合うことが出来るようになる。
そして、人に優しくできる。
これは、人付き合いが怖い心理を乗り越えた人だけが得た特権である。
なぜなら、人付き合いにおける痛みを知っているから。