子どもカウンセリングを担当していると、思春期のアダルトチルドレンに接する機会が多くなる。

父親が「アルコール依存症」であったり、両親の仲が悪かったり、嫁姑関係が悪かったりするような、「機能不全家族」に育った子どもたちが多い。

 

彼らは家庭内暴力、非行、シンナー中毒などの薬物乱用、拒食症、過食症、不登校などの問題を抱えて、カウンセリングに訪れる。

 

アルコール専門病棟をもつ国立久里浜病院の鈴木らの児童相談所での調査では、「アルコール依存症」の親を持つアダルトチルドレンは、持たない子どもたちよりも、被虐待、非行、不登校などの問題が多かったと報告している。

また緒方も、不登校と思春期時代の狭義のアダルトチルドレンとの関係を指摘している。

そしてシャフェッツらやハーバーマン、アロンソンらは、アダルトチルドレンは学校に関するトラブルを多く持っていると報告している。

 

ただ、ここで付言しておかなければならないことは、児童相談所を訪れる不登校は家族問題を持つ子どもが多く、文部省の調査でも、不登校はいじめや学校問題で起きるものが多いので、不登校の一部に思春期のアダルトチルドレンがいるということである。

 

さて、アダルトチルドレンには、このような問題を起こすような思春期を送る子どもたちが果たして多いのであろうか。

 

アダルトチルドレンは「共依存」と関係し、その「共依存」の人口あたりの出現率はかなり高率なので、むしろ「静かな思春期」を送っているアダルトチルドレンの方が多いと思われる。

しかし鈴木らの指摘のように、「アルコール依存症家族」では、家族が崩壊しているので、相談する比率が低いだけであり、社会的に一見すると「静かな思春期」を送っているのかも知れない。

ギグリオとカウフマンは、狭義のACOAはCOA(チルドレン・オブ・アルコホリックス)の精神病理(サイコパソロジー)に由来していると指摘しているので、思春期のアダルトチルドレンも、成人のアダルトチルドレンの心理的特徴、心性などを持っていると考えられる。

 

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ところで、クリントン大統領は、義父と実母の「なだめ役」と高成績の「家族英雄」の役割をとって暮らしていた。

しかも、義父がアルコール依存症であることを家族以外の者に口外していない。

多くの思春期のアダルトチルドレンは、5つの役割を取りながら、むしろ問題を起こさずに、「良い子」とも形容できる姿で暮らしている。

 

ただ、「アルコール依存症家族」「機能不全家族」に育っているので、友達を家に呼べなかったり、家族のことを知られるのを恐れて、友人にしゃべれなかったりする悩みはいつも抱え続けている。

家族を憎みながら愛し、愛しながらもこころのなかで捨て去る日々を送るアダルトチルドレンたちの「静かな生活」は、激動の青年期を迎える前奏曲とも形容できる。

いかに物わかりのいいティンカー・ベルでも、忍耐には限度がある。

あなたの努力にもかかわらず、肝心の彼があなたの変化を認めず、「ないない島」を出ることを拒否したら、どうしよう。

ピーターにとっては、ティンカーベルより、彼の家をきれいにしてくれるウェンディと一緒にいるほうが快適なので、結局はティンカーベルを振ってしまう。

もしあなたのピーターが、彼のティンカー(つまり新しいあなた)に応えようとしなければ、残された道はただひとつ、彼と別れることしかない。

しかし、それはいつ?

 

見切りのつけ方だが、答えは実に簡単、ティンカーとしてのすべての努力をしたのち、そして、すべての望みが失われる前、である。

 

彼と別れる、と告げること自体が最後のチャンスになる。

 

あなたが「別れる」と言ったことが刺激になって、彼が発奮し、いままでのあなたの不満に耳を傾け、今後どうしたらいいかを考える機会が生まれることだって、充分考えられるからだ。

また、あなたから見れば、これまで、すこしずつ別れの宣言をしてきたのに、彼は全然、気づいていなかったかもしれないし、大慌てで、もう一度やり直そうと全面降伏してくるかもしれない。

 

さて、そこで、だ。

彼が未練たっぷりに追っかけてきた場合、あなたは許して迎えてあげる気になるだろうか?

だとしたら、まだ希望と愛情が少しでもあるうちに、そうするべきなのだ。

 

行くなら勝手にどうぞ、と言われたら、どうしたらよいだろう?

それは、たいへん辛いけれど、あなたを必要としていないという意味なのだから、あなたも過去はきれいに忘れて、どんどん前進すべきだ。

たいていの場合、別れを女性が決意するのは、口で言うほど簡単ではない。

「別れる!」とは言っても、本心でないかもしれない。

男も敏感にそれを感じ取っていて、せいぜい2,3日は神妙でも、またすぐ元どおり、ということになりやすい。

 

また、別れる意思は充分にあっても、経済的な理由とか、女一人で働きながら子どもを育てあげる自信がなくてとか、現実的な問題があって別れられない女性もいるはずだ。

「住む場所がない」「貯金がない」、こうした恐怖に勝てないなら、それはそれで結構。

ティンカーベルになるのはきっぱり諦めて、ウェンディに徹することだ。

 

なぜなら、すべての女性がティンカーになる必要はどこにもないからだ。

無理してティンカーベルになり、かえってみじめな一生を送ったのでは意味がない。

 

あるいは、「彼がいなくなってしまうなんて耐えられないから、このままお母さん役を続ける」と結論する女性もいるだろう。

それならそれでよろしい。

最高の関係じゃないかもしれないけれど、まだまだ我慢できる範囲だったら、それでいいではないか。

ただ、自分に嘘をつくことだけは止めてほしい。

両目をきちんと開けて、現実を直視したら、時にはウェンディの合い間にティンカーベルになれるかもしれない。

 

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「結婚の誓いを破ってしまう」「私が彼をこんなに追いつめたのよ」「私はわがままな女ね。一人で先に逃げ出すなんて・・・」などなどのことを別れない理由にする女性がいる。

だが、こういう言い訳は、女性の弱さを示すものと受け止められがちだが、その逆で、女性には男性の弱さがちゃんと見えていて、自分を責めることで彼の上に立ち、彼を守ってやっているのだ。

こういう歪んだ罪悪感を、「迷い子犬」的後ろめたさ、と名づけている。

 

迷い子の犬がお腹を空かせているのを見て、知らん振りができないのと同じで、自分を残酷な女にしたくないから、ついつい情けを掛けてしまうのである。

「彼は自分一人でやっていく力がないから、私が出ていったら、きっと大変だわ。料理一つできないのだから・・・」

 

たしかに、彼は料理も、裁縫もできないだろうし、洗濯機のスイッチがどこにあるかだって知らないかもしれない。

だからといって、彼には学習する能力はないのだろうか?

 

いや、あなたが彼を、家事を100パーセント女性に頼るように教育してしまったのだ。

だから、私は、ティンカーベルへの移行は徐々に進めるように、と言ったのである。

あなたがウェンディタイプから脱却するために

 

「どうしたら変えられるの」-この質問は、「変化のための青写真」をひと言でまとめたものだ。

この質問にあるように、心理学的な鏡に映るありのままの自分の姿を直視することで、この一連の自己点検テストは終わる。

 

しかし、さらにシンデレラ・コンプレックスによる悪影響を述べることによって、この質問の効用について完全に答えておきたい。

 

いま、あなたは、あなたとあなたの夫、またはあなたの恋人が、それぞれ互いに変化していく青写真を、どう実現させるか、というところにまできている。

そこで、それを実行するに当たって、次の二つのことを念頭に置いてほしい。

 

第一は、あなたが夫や彼のピーターパンシンドロール的行動に直面したとき、相手に対して何をやっても、ほとんど変わりはない、ということだ。

それよりもまず、あなたがウェンディ的な言動を一切止めることが肝心だ。

とくに、彼と離れて一人っきりにはなりたくないという、ウェンディ・タイプが陥りやすい”独立への恐怖”を口にしてはいけない。

これは最優先してほしい。

 

第二は、彼のいたらない面、悪い面を問題にしようとするあなたの青写真の中に、彼の素晴らしい面を今後どう活用すべきかを織り込んでほしい。

また、彼がいつもしているピーターパンシンドローム的行動ばかりを見ていると、あなたはどうしても悪い面ばかりを採り上げることになるので、まずは、しばしば現われるよい面を採りあげることから始めてほしい。

 

たとえば、あなたの青写真があなたに「かれは決して別な女といちゃついたりはしないが、ときどきあなたの性的な積極さに出会ってオロオロする」と語りかけたとしよう。

こういう場合にはまず彼の真面目さに感謝し、そのうえで、一晩中あなたが彼に背を向けて寝なければならないのは、どんな気持ちかを、彼に話なさい。

こうすることによって、あなたの性的な誘いに対する人付き合いが怖い彼の不安を和らげるチャンスをつくることができる。

 

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もし、あなたのお相手のピーターパンシンドローム得点が低くて、しかもあなたのウェンディ度がそれほど高くないという場合であれば、あなたは次に述べる対応策をそのまま自分に当てはめる必要はない。

 

しかし、あなたは自分が完全にシンデレラ・コンプレックスを克服しているかどうかをつねに考えてみてほしい。

あなたは「ないない島」とおとぎ話の魔女の罠に陥らないと、どうして断言できるだろう。

とてもそうは思えない。

たとえ、あなたが自分をティンカーベルだと思っても、無意識のうちに、かわいい緑のスーツを着て、部屋のすみであなたを待っている魅力的な男性を心の中で思い描いているのではないだろうか。

離婚した母、未婚の母などへのアドバイス

 

子どもがピーターパン人間ではないかと最初に気づくのはたいてい母親である。

 

ところが父親のほうは、母親の心配ごとに耳を貸さない。

そのうえ、母親ほど子どもを観察することもない。

 

そのために、父親は母親のこの発見を、心配のしすぎだというふうに間違って受け取ることが多い。

このように、母親が父親の目を開かせることができない場合には、彼女一人でがんばるほかない。

 

また、夫と離婚したり死別した母親、さらには未婚の母になった女性も、当然一人で子どもを育てていかなくてはならない。

 

しかし、夫の協力を得ることができないからといって、なにもかも諦める必要はない。

 

もちろん、母親だけでは、どうにもならない問題もあるにはあるが、次の助言のように、一人で息子のピーターパンシンドロームの進行を止める手段はたくさんある。

 

1.サポート・グループを探す

PTA、教会、あるいは地方の精神衛生機関などが開催している討論会を利用すること。

近隣、仲間の集まりなど、もっと非公式なグループもいろいろある。

同じ悩みを持つ人たちが助け合う会なのだから、恥ずかしがってはいけない。

 

2.躾の基本原理を注意深く実行する。

具体的な実行方法を、仲間たちと相談する。

問題は、どうやったら子どもをしつけられるかで、それには断固たる実行以外にない。

仲間うちで議論のための議論のための議論など、やっているだけではダメ。

人付き合いが怖くなるというやりすぎる間違った躾は禁物だ。

 

3.自分自身を養う。

苦痛なこと、退屈なことを、まるで楽しいことでもやっているかのように見せかける殉教者的な態度は、捨ててしまいなさい。

他人のようにしか思えない男と一緒に暮らしていると、あなたは自分の孤独に耐えるために、どうしても家庭外の活動に心を向けるようになる。

実際に、一人で生きてゆく母親たちの多くは、エアロビック・ダンスやテニス、あるいは、もう一度学校の勉強を再開することに生きがいを見いだしている。

 

4.専門家の助けを求める

社会的不能症に陥った人や頭のおかしくなった人、さもなければお金持ちだけがカウンセラーのところに行くわけではない。

どこにでもあなたの話に耳を傾け、客観性のある助言を提供してくれる、よく訓練されたカウンセラーがいる。

これらのカウンセラーのいる機関の多くは、あなたの経済力に応じた料金で相談に乗ってくれるはずだ。

何度受けても結構。

しかるのち、ご主人を連れていければよいのだが。

過去2,30年近く、育児の専門家は話し合いが問題解決の最良策と主張してきたが、それは誤りだ。

 

話し合いは、子どもたちの考える気持ちを育てたり、失敗から学ぶうえでの手助けになるのは確かだが、それは状況が落ち着いて感情的な興奮がおさまり、気持ちにゆとりができたときにかぎる。

トラブルの真っ只中で理性的なコミュニケーションを求めるなど、とんでもない。

かえって事態を悪化させるだけだ。

 

問題を解決し、それによって子どもを鍛え、さらに有意義なコミュニケーションを持つための道を拓くには、断固、実力行使すべきなのだ。

この原理を実例で説明すると、こうなる。

 

お菓子屋さんでキャンディを買ってもらえないと泣き叫ぶ四歳児に、ほかの子どもたちに笑われるよと諭したり(これは同年代の仲間の圧力を利用するしつけ方だが、とても危険なやり方だ)、砂糖の害を説いたところで、子どもはさっぱり耳を傾けてくれない。

ますます大声でわめくばかりだ。

それどころか機嫌の悪くなった子どもとの人付き合いは、そこで失われて怖くなってしまう。

ママが採るべき最善策は、やはり何らかの実行行使しかない。

 

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お尻をピシャリとたたいて黙らせるのも一つの方法だろうが、この意見には賛成でない。

ひとまず、お菓子屋の前から引きずってでも引き離し、泣き叫ぶのを止めさせるのがいい。

ママは、子どもが耳を傾ける余裕を取り戻すまでコミュニケーションを控えるべきなのだ。

いつまでも若いはずだったのに、最近はソファーで居眠りするし、眠ったら眠ったで筋肉のあちこちが痛んで、すぐに目が覚める。

それどころか、夜には遊び友達と相変わらずガンガン騒ぐばかりだったのに、玄関前の芝刈りをやらされるハメになる。

なんともそれは孤独な戦いだ。

妥協を許さぬ偉大な指導者として、世間から畏敬の念を向けられるはずだったのに、実際には厳しい経済負担に耐えていかなければならない。

おまけに、妻は彼の男尊女卑志向に反発し、子どもたちは空疎なわが家に所属感など持とうともしない。

こんな状況におかれて、絶望しないほうがおかしいというものだ。

 

しかし、ピーターパン人間は、中年になれば男はみんな、こういう悩みをかかえるものだと考える。

たしかに、誰にだって多少はそういった気持ちもある。

だが、彼は長い年月、回避と否認の人生を繰り返してきたのだから、その困惑の感情は常人の比ではない。

結局、彼はスーパーマンのように完全な自己イメージをつくりあげてしまったために、自分の痛みを真剣に受け止めることさえできないでいるのだ。

 

ピーターパン人間は一人ぼっちで葛藤と闘わなければならない。

助けがほしいとは思うのだが、何かが彼にストップをかけてしまう。

自分の孤独感が物笑いのタネになるのを恐れる気持ちが強いために、助けを求めるのは危険な賭けだと信じている。

さらにショービニズムのために、自分の弱さを認めてプライドを傷つけるようなことは許されない。

長年の習慣で、陽気に振る舞い、タフな自分は破綻とは無縁の人間だというフリを上手にやるため、身近な人でも、彼の実体にはなかなか気がつかない。

ただ、妻や恋人だけは、何かおかしいと感づいている。

 

彼女たちは、彼と親しくつきあえばつきあうほど、彼がおかしいことに気づくようになる。

しかも彼女たちも彼に巻き込まれてしまい、それは人付き合いが怖い彼だけの問題ではなく、むしろ、二人の人間関係による問題だと思うようになる。

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彼女たちにしてみると、いったい自分自身がどれだけ彼のトラブルに巻き込まれているのか、はっきりつかめないにせよ、もはや自分自身の生活も絶望的なものになってしまった、と判断せざるをえない事態を迎える。

おそらく、二人でその問題を理性的に話し合ったことはないだろう。

敵意を抑え、抑圧しあった結果、一見、何の関係もないところで非難合戦をやったりすることになる。

そうこうするうちに、連帯感も相互の信頼関係も失われ、コミュニケーションがどんどんなくなっていく。

婚約中の二人、挙式を先に延ばし、もう挙式してしまった二人は後悔を繰り返し、あんなに恋していた二人なのに、今では顔を合わせる嫌、と思うようになる。

 

そう心では思っていても、表向きは仲よし、相思相愛の二人を演じてしまう。

「たしかに私たちにも問題はある。だけど問題のない人なんているの?困ることなんて何もないんだ」

人付き合いが怖くなるとは、あるがままの自分で他人と接してこなかった末の結末である。

 

家族主義が濃厚な時代は、上司も教師も”親代理”であったから、気の利く親と同じように、部下や生徒のひとりひとりにいつくしみの情を示した。

 

豊かな人付き合いである。

 

それゆえ仲間を出しぬいて・・・という心理は現代ほどには強まらなかったと思う。

 

真面目に努力していれば上司や教師が必ず認めてくれるという信頼感があった。

 

ところが今はちがう。

 

家族主義の希薄化と能力主義の台頭が個人と個人の競争を激化した。

 

人を出し抜かないと飯が食えないかのような感じが蔓延している。

 

おちおちしておれないのである。

 

誰かがなんとかしてくれる時代ではない。

 

つまり”親代理”がいないのである。

 

人付き合いも強かな時代である。

 

「これこれの点をとりました」「これこれのライセンスをもっています」「これこれの仕事をしました」と誇示して認められないことには、うだつがあがらないのである。

 

競争社会の人付き合い

 

もっとも、アメリカにくらべると終身雇用制度の日本はずっとよい。

 

競争に負けたからといって職を追われるわけではない。

 

自分さえ窓際族扱いを我慢すれば月給はもらえる。

 

自己保存の本能のゆすぶられ方はアメリカほどではない。

 

私は海外の大学に留学時代、アルバイトでデパートの掃除夫をしたが、いつくびになるかとびくびくしどおしだった。

 

私より有能な掃除夫が応募してくれば、一発でおろされることを知っていたからである。

 

あるいはレイオフのとき、成績のわるい掃除夫がイの一番にくびになるからである。

 

私に掃除の仕方を教えてくれた黒人青年は、いつのまにかいなくなってしまった。

 

人付き合いも怖い環境である。

 

たしかに日本がいくら能力主義といったところでアメリカほどではない。

 

しかし、戦前とくらべると今の日本はずっと競争が激しくなっていると思う。

 

特に販売会社がそうだ。

 

売上が棒グラフになって事務室に貼ってある。

 

成績のよいものは海外旅行にやってもらえるが、何年たっても叱られてばかりいるセールスマンもいる。

 

私の知人のセールスマンは、得意先の子どもの誕生日のリストをもっている。

 

お祝いを欠かさないためである。

 

競争社会で人付き合いが怖い

 

毎年そのために5万円はポケットマネーを使っているという。

 

客をめぐっての競争である。

 

ぎすぎすした人付き合いである。

 

それは結局、上司をめぐっての競争でもある。

 

認められたい欲求は誰にでもある。

 

問題はそれを悪用して、シャモの喧嘩のように、人間同士を競わせる仕掛け人がいることである。

 

これでは心の許し合える仲間などできないのが当然である。

 

心の許し合える仲間ができないと、周りの他人がすべて敵であると思えてきて、人付き合いが怖くなる

 

それゆえ、「競争などもういやだ、安心してつきあえる仲間がほしい」こういう声が高まってくるのは当然だと思う。

 

暴走族などは、競争社会からおりて勝ち負けなしのつきあいをしようじゃないか、という主張だと私は思う。

 

見知らぬもの同士が急速に親しくなるというのは、よほど寂しいからだと思う。

 

自分を開く

 

話を聞くばかりだと相手がだんだん不快になって、嫌になり、それが続くと人付き合いが怖くなってくる。

 

自分だけうまく乗せられてしまった、泥を吐かされてしまったと思うからである。

 

そこで相手が自分を開いて答えてくれたていどに自分自身も開くべきである。

 

「私は一人っ子です」と相手が答えたら、「私は五人兄弟の末なんです」という具合に自分も開くのである。

 

これを繰り返しているうちに、お互いがどんな人間かだんだんわかってくるから、構えがとれる。

 

構えがとれるから感情交流もおこりやすくなる。

 

つまりふれあいに一歩近づくわけである。

 

したがって自分が開けるていどに人にきくのがよい。

 

自分はいいたくないことを人にきくのは人付き合いの礼節に反する。

 

「君の月給いくら?」ときく以上は、自分の月給はこれこれだと答えられるのでなければならない。

 

一緒に行動する

 

人と一緒に行動するのもつきあいのきっかけになる。

 

宴会、旅行、ゴルフ、大掃除など一緒に何かするのである。

 

スポーツの仲間は、卒業後も兄弟のように仲がよいものである。

 

寝食をともにしなくても、ある時間を一緒に過ごすことは相互に気心が知れる機会になる。

 

たとえば教師は休み時間は運動場に出て子どもと遊んだほうが、子どもがなじんでくれるから、クラス経営もやりやすい。

 

教授は教授食堂に行かずに学生食堂で学生と一緒にラーメンを食べたほうが授業でも討論しやすい。

 

親しいからラーメンを一緒に食べるのでなく、ラーメンを食べるから親しくなるのである。

 

人付き合いが怖くても、恥ずかしくても、てれくさくても、砂を噛む思いで一度はしてみることである。

 

かたちから入る方法である。

 

ある人に関心がなくても、聞くだけ聞く、一緒につきあうだけ付き合ってみる。

 

これを実行しているうちに、心の中になんらかの変化が出てくるはずである。

 

もし何の変化もなければ、この方法は今の自分には合わなかったのだと思えばよい。

 

そしてちがう方法を実践してみることである。

 

人付き合いが怖いの克服は行為から心へ

むかしの心理療法は、心をなおせば行為もなおるという考えであった。

 

たとえば甘えたい気持ち(心)を満たせば、夜尿症がなおる。

 

恐怖心を除けばどもりが消える、というのである。

 

ここではそれとはちがう考えに立っている。


行為をなおせば心もなおるという考えである。

病人でも洗面しをすると病人らしい気持ちが減少する。

 

教授でもジーンズをはくとか、ステテコ一枚になると、少しは話がくだけてくるなどがその例である。

 

さて、この場合、急激にある行為がとれない場合には、ステップ・バイ・ステップで徐々に行為を変えていくのである。

 

ステップ・バイ・ステップの中身は自分で工夫するとよい。

 

例をあげよう。

 

姑と口もききたくないという主婦がいる。

 

辛い人付き合いの環境である。

 

別居するわけにもいかないので、今よりもなんとか気持よく暮らせる方法があったら教えてほしい、というのである。

 

「今よりなんとか気楽に・・・」というのはどのていどのことかと私は問うた。「今のように無言の行にならないていどの仲になれたらいうことはない」と彼女は答えた。

 

そこで私は次のようなステップ・バイ・ステップのプログラムを課した。

 

第一週目。

ものをいいたくないのだから、ものをいおうとするな。無言のままでよい。

 

無言のままでよいから一日に一回、五分間ほど、一緒に時間を過ごすこと。

 

たとえば、姑がテレビを見ているなら自分もそばに座って一緒にテレビを見る、姑が食器を洗っていたらそばに行って黙ったまま食器を拭くという具合にである。

 

毎日どんなことをしたか、小学生のようにメモして、私に報告せよ。

 

第二週目。

一日一回でよいから姑に何か聞け。「おばあちゃん、今夜のテレビ何を見る?」「おばあちゃん、お昼は何を食べたい?」という具合にである。

 

これもまたメモして報告せよ。

 

メモをさせるのは、それが強制になるからである。

 

強制しないとなまけるからである。

 

第三週目。

姑に質問を発したあとで、必ず自分のこともいえ。「おばあちゃん、今夜のテレビ何を見る?私は時代劇をみたいけど」「おばあちゃん、今夜何を食べたい?私はさしみが食べたいけど」という具合である。

 

これもメモさせる。

 

わざとらしいことをする

 

この例などはしっくりいっていないものをなんとかしようとするのであるから、かなりの努力がいる。

 

そんなわざとらしいことができるものか、と反発する人もいると思う。

 

わざとするのはよくないことである、という前提があるから、そんなことをいうのである。

 

英会話でも初めはわざとらしい。

 

芝居でも初めはわざとらしい。

 

部長になりたての頃はわざとらしい。

 

デートの初期はぎこちない。

 

わざとらしいことをするのはよくないことである、という考えこそよくない。

 

付き合い始めの頃はきくことがないので、わざと天気のことを話題にする。

 

これは多くの人がしていることである。

 

わざとらしいことはできないなどといっているから、ふれあいどころか人付き合いもできないのである。

 

わざとらしいことをどんどんするとよい。

 

その例を語ろう。

 

私はA美大で暇になった時期がある。

 

その頃は時間があったので講演会によく出かけた。

 

しかし今の東京理科大に移ってからは、なかなかそんな暇がない。

 

ところがちょっとしたことから四国の教育委員会に出掛けるはめになった。

 

しかもよろこんで出かけるのである。

 

「ちょっとしたことから」とは、こんなことである。

 

あるとき未知の読者から電話があって、私の本を称賛してくれた。

 

ナルシシズムのつよい私にすればうれしい話である。

 

人付き合いの怖さから脱出するには、ナルシシズムの克服が必要条件となる。

 

その後、半年ほどして、研究会のテキストに私の本を用いているとの手紙があった。

 

さらに半年して研究会のメンバーが著者の顔を見たいといっているが飛行機代は出すから顔を見せに来てくれないかという。

 

私はすぐこの話にのった。

 

行ってみると、Uさんという人がタネを明かしてくれた。

 

一年がかりで彼の計画を実現したのだという。

 

つまり、ステップ・バイ・ステップで戦略的に私にアプローチしてきたのである。

 

私はいやな感じがしなかった。

 

むしろ彼の熱意を感じた。

 

ところが人によっては、自分もそうしたいのだが、人付き合いが怖いため、手も足も口も動かないのだという人がいる。

 

心理的距離をとる

 

人付き合いが怖いという感情から抜け出すには、人との心理的距離をとることが大切である。

 

人付き合いが怖い人は、心理的距離が近いのである。

 

物理的距離と心理的距離は違う。

 

まったく知らない人が大勢いる電車の中で座席に座っていて、隣りに人がいる。

 

これは、物理的距離は近いが心理的距離は離れている。

 

これならば、隣りの人が何かしてもほとんど何も影響を受けない。

 

しかし、例えば、飲み会で、怖い神経質な上司がテーブルの向こう側に座っている。

 

上司のグラスが空になったタイミングを見計らっている。

 

これは、物理的距離は遠いが、心理的距離は近い。

 

上司とピンと張った糸で繋がっている。

 

上司の言動で大きく左右されてしまう。

 

物事を客観視する

では、その心理的距離を離すにはどうしたらよいか。

 

その近道は、物事を客観視することだ。

 

人から怒られると、ダメなことばかりにばかり目がいく。

 

特に、社会に出ると、ダメな所を指摘されて、直させ、良いところはあまりフォーカスされないという風潮がある。

 

ダメなことばかりに目がいってばかりいると自信をなくし、人付き合いが怖くなる。

 

しかし、実は良いところはたくさんある。

 

そこに目がいかない。

 

上司は、悪気があって叱っているのではなく、仕事として叱らなければならないのである。

 

客観視できない人はそのことに気づかない。

 

失敗を受け入れる

 

では、物事を客観視できるようになるには、どうしたらよいか。

 

それは、失敗を沢山して、全部受け入れていくことである。

 

大勢の前のスピーチで声が震えることを受け入れる。

 

何回も大勢の前で声が震えて話す。

 

何回も大勢の前で過呼吸になる。

 

それを当たり前だと思い繰り返す。

 

すると、大勢の前で震えていいんだと、無意識の領域で理解される。

 

すると、スピーチの時の自己肯定感が高まる。

 

上司と会食する時、ひと口も食べず、全て残す。

 

最初は、変なヤツじゃないかと思われるのが怖い。

 

しかし、次の同じ上司との会食の時も、ひと口も食べず、全て残す。

 

その次も残す。

 

その次は、おかずをひと口だけ食べてみて後は全部残す。

 

その次は、全部残す。

 

そんなことを続けていれば、残してもいいんだと楽になる。

 

つまり人付き合いが怖いという感情から解放され、楽になる。

 

しかし、会食でひと口も食べず全て残すということは、勇気がいることである。

全て残すということは病院で消化器系の入院患者ならザラだが、一般的な会社に勤めるサラリーマンやOLにとってはいかがなものであろうかというジレンマが付いてまわる。

 

そのジレンマを破っていくには人付き合いが怖い人にとっては大きな勇気がいることなのだ。

 

無意識の中の恐怖を見つける

 

デートの時、緊張して食事が喉を通らなくなる人は、まず無意識の中にはどのような動機があるのか見つけることが大切である。

この場合、食事をひと口も食べないなんて変な人→嫌い→フラれる。

という動機が推測される。

 

この人は、フラれるのが怖いのである。

 

フラれるのが怖い人と付き合い続けるのは結局、パートナーとして不適合なのである。

 

本当に、良好な対人関係というのはリラックスして全てご飯を食べることができるのである。

 

この無意識に気付いていない人が多い。

 

デートで緊張しすぎてご飯をほとんど食べられず、フラれるのを恐れるのは二人の対人関係の歯車が噛み合っていないのである。

100%自分のせいというわけではないのである。

相手のせいでもある。

 

恐怖を勇気を持って受け入れるにはまずこの無意識に気付くことが先決である。

人付き合いが怖いというジレンマから解放された後はどんな感じになるのか

人付き合いが怖いというジレンマから解放された後は、自分自身の体で地面に足を着いて生きているんだという、体の根っこからエネルギーが湧き上がってくるような感じになる。

 

料理も新作にチャレンジしようという気持ちになり、汗を流して運動することも気持ちが良いと感じる。

 

なにより、他人と真の心の触れ合いができる。

 

人それぞれの個性が分かり、客観的に距離を操作して他人と付き合うことが出来るようになる。

 

そして、人に優しくできる。

これは、人付き合いが怖い心理を乗り越えた人だけが得た特権である。

 

なぜなら、人付き合いにおける痛みを知っているから。

 

ジェリー・ギルモア(19歳)-。

 

「キミみたいないい子が、なんでまた、こんな記録をつくるんだろうね?」

 

リストには、窃盗、万引き、家宅不法侵入、その他の違法行為がズラリ。

このほかに、おそらく余罪が山ほどあるにちがいない。

 

盗みに情熱を燃やすこの盗人クンが、ナルシシストでピーターパン人間というのは、意外な気もするが、事実そうなのである。

 

その彼が、なぜまた診療所へやってきたのか?

理由は簡単。

やはり母親の命令で、だ。

 

この年になってもまだ、母親の言いなりになる自分に少々腹を立てているけれど、母親はトラブルから抜け出す切符だ。

これまで何度も牢屋から助け出してくれたし、思い出せないものまで含めたら、ずいぶんたくさん世話になっている。

 

だからせめて、行けという話くらい聞いてあげなくては。

でも、彼自身は何も悩んでなんかいない。

彼のほうから何も話すつもりはない。

 

ジェリーはこれまでに、精神科医、心理学者、ソーシャル・ワーカー、高校のカウンセラー、牧師、それから数え切れないほどたくさんの少年問題相談員と面接してきた。

いうなれば、カウンセリングずれしている。

 

しかし私は、彼が私のカウンセリングに向かないとは思わなかった。

人付き合いの怖いジェリーの中にナルシシズムを感じた途端、とっさに医師はピーターパン人間と診断した。

 

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そして、そのために医師は、事前に準備をととのえることができたのだった。

 

ジェリーのナルシシズムを理解するには、二歳児とかくれんぼするところを想像すればいい。

 

十数えて探しにかかると、キャッキャという笑い声がソファーのすぐ後ろから聞こえる。

ソファーの蔭から彼のつき出した足が見えている。

ところが子どもは、そんなに簡単につかまってしまっては、おもしろくない。

「こっそり見ていたんだ!ずるい!」と抗議する。

 

この子の不満を理解できれば、ジェリーのナルシシズムの特性をつかむことも可能だ。

 

子どもからは、あなたが見えない。

だから、あなたも子どもを見ることができないと想像する。

子どもは、自分に見えるものはソファーの背だけだから、相手に見えるのはソファーだけにちがいないと信じている。

自分の目で見えないものが、相手に見えるなどとは、けっして思わない。

目に見えなくても、勘や耳で探し当てることができるということを、幼児たちはどうしても理解できない。

 

つまり、興奮しているから、自分が笑い声を立てているのを忘れている。

だから、「ずるい!」と叫ぶことになる。

女の子が、スーパーウーマンの役割をどう演じるかを企んでいるので、男の子たちはおどおどしどおしだ。

いま評判の連続コメディが、男の子たちにその答えを与えてくれる。

 

やさしくて自分の感情を怖がらずに出せる男性が登場。

これはいいぞ、と思って見ていると、この男には思いがけない裏があって、こんなシナリオを演じる。

実はドジばかり踏む、愚かな大嘘つき。

しかも、まるで子ども扱いされているではないか。

女の子二人と、いい調子で付き合い、セックスを楽しんでいる。

だが、それだけではすまなくて、現代風を装ってゲイのフリまでする。

実はこの男性は、こんなメッセージを伝えているのだ。

 

もし、やさしくて繊細な人間でいたければ、道化役を演じて、みんなに男らしくないと思わせるのが一番だ」と。

 

だが、正常なヘテロ(異性愛)でいたい男の子なら、誰だってこんな役割はすぐにお断りだ。

しかし、これでがっかりしてはいけない。

次の番組には、また別の男性が出てくる。

彼は切れ者、ハンサムな私立探偵。

バカなことはいっさいしない。

仲間は彼を最高と崇拝している。

女の子は、彼がわざわざ誘わなくても、バタバタと足許にひれ伏す。

その筋肉、髪、すべてに男らしさがにじみ出る。

 

どんな苦境もかならず克服、弱点をけっして見せたりしない。

びくびくしたり淋しがったりなんて、彼には無縁だ。

 

しかし、この二つの番組を見る男の子たちは、どっちにしても戸惑ってしまう。

登場人物と同じ気持ちになれないからだ。

男の子たちにしてみると、道化役になれば、バックボーンのないバカ扱いにされる危険を冒すことになるし、だからといって、何でもうまくやれるヒーローを見習おうとしても、あまりにかけはなれていて、弱い自分にはとても近づきがたい。

そして、この戸惑いをどうしようかと思っているうちに、次のコメディ番組になる。

今度はささやかな感動が楽しみというお話だ。

 

主人公は年はずっと上だし、親父さんタイプでやさしく、よく喋る。

料理はうまいし、子どもも可愛がるし、自分の弱さを素直にさらけ出す。

悲しければ泣くし、怖がりでもある。

これはいい線いっている。

このシナリオはためになるぞと思っていると、ところが、だ。

またしても彼はゲイなのだ。

男の子たちは驚いて、「まさか、僕もこんなふうになるんじゃないだろうなあ?」と自問する。

人付き合いの怖い人にとっては、逃げ出したいだろうか。

 

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だが、男の子たちの中の特定のグループ、つまりその多くはピーターパン人間なのだが、彼らが、この最後のシナリオを演じようと思ったとしてもおかしくないし、その役を演じようと決心すれば、ゲイの仲間についての情報を集めたり、現実に接触を持ったりする機会がいろいろある。

実際、ゲイは、彼らの内面に起こっている混乱を解消してくれるように見える。

しかし、本物の同性愛者というものは、ほとんどの場合、人並はずれて性役割の葛藤にひどく苦悩しているものだ。

彼らは、自分のパーソナリティの女性的な面を実現しようとするわけだが、それだけに、今度は自分の男性的な部分に対して、深刻な疑惑に取りつかれることになる。

孤独をなんとかしようとして、見かけのうえで自分の性別を切り換えてはいるが、彼らもまた、「ないない島」に暮らしているのである。

(ピーターパンが上演される時、いつも女優がピーターの役を演じるが、これは性役割の葛藤を表す一つの興味深い実例だ)

 

性役割の葛藤で苦しみはじめると、彼らには流動的でダイナミックな大人のつきあいができなくなる。

この硬直化が活発さを失わせ、定まった役割の中に彼らを閉じこめてしまう。

たえず失敗を恐れて危険を冒さないようになり、人とのかかわりあいに、まるで心も魂も抜け落ちたかのように関心を失ってしまう。

その結果、自分は人を愛する能力のない”ダメ人間”だと思い込む。

そしてついには、この間違った思い込みが彼らの現実になってしまう。

そうなると、盲目的なナルシシズムに耽るよりほか手段はない。

 

この偽りの現実に順応する道は三つ。

一つは、自分が大人になることを守ってくれる女性を代理ママとして見つける道。

いま一つは、ゲイの暮らしが孤独ではないと思い込んで、彼らの仲間となって性役割の葛藤から逃れる道。

そして最後が、孤独と対決し、自分の生活をコントロールできるようにするために、助けを求める道である。

 

悪いことに、両親は愛情の代わりに、お小遣いと品物をたっぷり与えることで埋め合わせしようとする。

 

これがはじまるとピーターパンシンドロームの進行がいっそう速くなって、危機が訪れる。

 

「愛情は金で買える」という神話を子どもも信じ、「カネとモノがあれば、人なんかいらない」とうそぶいたりする。

この間違った思い込みが自我をダメにする。

また、そう思い込むことで、すべての不幸の原因となる孤独を解消しようとする。

 

若いピーターパン人間は、孤独と同時に豊かさにも苦しんでいる。

 

彼らにとって、ひとつのグループに属することは、商品のように、好みしだいで買ったり、交換したりできるものと考えている。

グループに入ってすることといえば、ピーターパンの笛がそうであるように、何か役割を創り出し、それを演じて仲間の人気を集めるとか、流行の服を買いそろえるとか、金品で友人の歓心を買おうとするくらいなものだ。

 

もともと、この種のグループ所属感は人への思いやりの結果、得られるものだ。

だが、彼らピーターパン人間には、このことがわからない。

 

彼らは愛情を買うのに夢中で、人を思いやる喜びを知らない。

それに、両親によって愛情は金で買えるという悪循環の中に閉じ込められているので、他人に心をつかうことで、グループへの所属感を得るにはどうしたらよいかを学ぶことができない。

 

そのうち、彼らの孤独から逃れたい欲求は、しだいにせっぱ詰まったものになっていく。

 

その想いがつのればつのるほど、まわりに人を集めてにぎやかに騒ごうとする。

大勢集まると、集団暴走がはじまる。

次から次へと流行を追いかけ、人と同じようにならなくてはいけない、という圧力を感じる。

上からでなく、横からのヒステリックな圧力で息が詰まりそうになる。

他人への思いやりを持つ余裕はなくなるし、ますます人付き合いというものが怖く孤独感に責めさいなまれる。

 

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皆と同じことをしないと、仲間外れになってしまう

 

家庭に自分の場所がないと思っている子どもにとって、友だちは唯一命綱だ。

人間とのふれあいがあるたったひとつの場所だから、なんとかしてそのチャンスを逃すまいと考える。

 

さらに、仲間の圧力が強くなると、ピーターパン人間は深刻な悩みに取りつかれる。

友達のほうが家庭より重要になる。

 

つまり、親の権威は失墜し、グループに同調することのほうが優先されるので、グループの道徳のほうが親の価値観よりも力を持つようになる。

しかし、この仲間グループは世の中のことが何もわかっていない盲目の集団で、しかも、指導者もまた世間知らずという世にも恐ろしい集まりだ。