過去10~15年間の政治活動やメディア政策は、たえずアメリカの男の子を、ひじょうに深刻な「性役割の葛藤」に巻き込んだ。

 

男性と女性に対する期待のバランスが大きく崩れ、子どもたちは次のようないろいろなメッセージを同時に受け取り、それを消化しなくてはならなくなった。

 

メッセージA

男の子も女の子も、急いで成長しなくてはいけない。

しかも性的能力がその判断の基準になる。

ものずごい努力をすれば、オムツが取れないネンネの状態から「恋人つき」の身分にまで、一足飛びになることだって可能だ。

それができないかぎり、グループに入る資格がない。

 

メッセージB

女の子は、伝統的に男らしいと言われてきたすべての傾向、たとえば、タフさ、忍耐力、自己主張、性的満足の要求、それに経済的自立を自分のものにすることができる。

それらは、社会的にも政治的にも公認されている。

もっと言うと、それのできない女性は”ダメ女”のレッテルを貼られる。

 

メッセージC

男の子がグループに属し、その一員として認められるためには、マッチョマンに徹しなくてはいけない。

それゆえどんなことがあっても、女の子みたいな振舞いをしてはならない。

感情を露わにすること、弱さを認めること、感受性を持つこと、性的に征服できる(女性と寝る)チャンスを見逃すこと、それに、女性に面倒をみてもらうこと。

これらは、人付き合いにおいて男として絶対にやってはいけないことだと考えられている。

万が一、女性サイドに一歩でも足を踏み入れたら、それだけで仲間外れ、「オカマ野郎」と、相手にしてもらえなくなる。

 

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女の子は、男らしいパーソナリティと女らしいパーソナリティの両面を兼ねそなえてもいい、というライセンスを手に入れた。

いやむしろ、好むと好まざるとにかかわらず、その両方を一度に身につけるように、圧力をかけられる。

ボディービルをしようと、バスケットボールをしようと、もはや「きつね」(レズビアンの男役)などと陰口をたたかれなくなった。

 

その点、男の子は同じライセンスを手に入れていない。

まだ人前で泣くなんてとんでもないとされている。

男女平等といくら言われようと、仲間の前で泣きだすなんて男の風土にも置けないと、みんな嫌がる。

ただし、少年が家庭とのしっかりとした絆を保っていると、グループの襟を破って女のテリトリーに足を踏み入れたり、やがて自分とよく似たほかの男たちの存在に気づくようになる。

 

家族のサポート(支持)がない子どもたちはどうなるかというと、グループから仲間外れにされたくない一心で、優しさや感受性を押し殺すだけでなく、弱虫と思われないように突っ張り、口が裂けても「淋しい」とか「取り残された」といった弱音は吐かない。

 

あるいはまったく逆に、男女対抗ダービーから外れて、ゲイ・グループに入り、自分のパーソナリティの女性的な側面の追求をはじめる。

もちろん、すべてのゲイがピーターパンシンドロームのためにそうなる、というつもりはないが、なかにはピターパンシンドロームがぴったり当てはまるゲイ男性がいるのも事実である。

 

フェミニストやゲイの権利運動のためには、政治的支持が多く集まっているというのに、「愛する女性の腕の中で泣くのを許せ」という男の運動を誰も叫ばないのは、なんとも皮肉で悲しいことだ。

性欲抑制

 

SSRIの副作用のひとつに、性機能障害があります。

とくに、長期間連用している場合には、気を付けなければならない問題です。

SSRIはセロトニン神経の働きを見かけ上増強するので、性欲に関しては抑制する方向に作用します。

この性機能障害の問題は、日本ではそれほど表面化していないようですが、だからといって軽視することはできません。

米国では、医学生の国家試験の練習問題に、SSRIの副作用として、性機能障害が取り上げられるほどで、一般にもよく知られた問題といえるでしょう。

 

食欲の調節

 

さまざまなダイエット法が次から次へと流行しています。

しかも、一方で現代は飽食の時代と言われています。

生活が豊かになり、おいしいものがいつでもかんたんに手に入り、その結果、肥満の問題が深刻化します。

そこから抜け出そうと、各種ダイエット法が流行しているのです。

 

ところが、肥満よりもっと深刻な病気があります。

思春期から青年期の女性のあいだでとくに急増している、過食と拒食を交互に繰り返す摂食障害です。

肥満恐怖、あるいは強いやせ願望のために、過食の食事制限をするのですが、ある時、一転して強迫的に大量に食べ続け、その後、嘔吐して体重増加を抑えるという行動を繰り返します。

拒食症の場合には激やせの状態になります。

過食症では、食べたいという欲求が自制できずに、短時間で大食いしてしまい、その後、嘔吐したり、下剤を使ったり、あるいは翌日には食べずに体重増加を抑えるという行動をとります。

いずれも、食欲のコントロールに異常が生じています。

 

このような摂食障害には、SSRIなどセロトニン関連の薬が効きます。

また、摂食障害は軽いうつ病やパニック障害を伴う場合もあります。

さらに、摂食障害の患者では、脳内セロトニン量が減少していて、症状が快復するに従って、セロトニン量も正常値に戻るというデータもあります。

したがって、摂食障害にはセロトニン神経障害が伴っていると考えられます。

 

食べるのを止められないというのは、一種の依存症です。

ドパミン神経が暴走している状態です。

セロトニン神経はドパミン神経に対して抑制性に作用しているのですから、セロトニン神経が弱ると、その抑制が効かなくなり、ドパミン神経が暴走したものと解釈されます。

 

ダイエットではない

 

摂食障害を克服するには、セロトニン神経をきたえる必要があります。

うつ病やパニック障害の場合と同じように、さまざまなリズム運動が効果的です。

若い女性の場合には、ウォーキング、ジョギング、水泳、エアロビクス、ダンスなど、さまざまなリズム運動が適しているでしょう。

ところで、これらのリズム運動は、ダイエット法としてきわめて一般的に知られているものばかりです。

ところが、摂食障害の克服と、ダイエットは一見似ていますが、まったく違います。

 

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ダイエットの目的は体重のコントロールに主たる目的があります。

そのため、せっせと汗を流し、エネルギーを消費すればよいわけで、摂食制限を組み合わせれば、比較的短期間に目的を達成することが可能です。

 

ところが、摂食障害を克服するためにセロトニン神経をきたえるのは、時間がかかります。

体重を減らすのではなく、セロトニン神経をきたえるのです。

そのためには、最低で、約100日くらいかかります。

それは、うつ病やパニック発作や対人恐怖症を克服するのと、同じ理屈です。

フラストレーションは発想の転換のチャンスであるといったが、そのためにはフラストレーションに耐える力が必要である。

 

耐える力がないと自暴自棄になったり、落ち込んだりして思考のゆとりがなくなる。

 

この耐える力をフラストレーション・トレランスという。

いわゆる我慢する能力のことである。

 

では我慢づよい人とそうでない人の相異はどこにあるか。

それは心の中の文章記述の相異である。

 

我慢づよい人は「こういうことは誰にでもある」「人生に八方ふさがりということはない」「つらいけれども耐えられる」「不便ではあるが絶望的ではない」「永遠にこの状況が続くわけではない」「この状況から脱出(例:離婚、転職)できないわけではない」という具合にできる限り人生の事実に則して考えていることが多い。

 

一方、我慢のできない人は「こんなことで苦労しているのは自分だけである」「自分だけこんな境遇におかれるのは不当である」「自分は我慢できない」「私の人生もこれでおしまいだ」「今さらこの状況から脱出するわけにもいかない」といった具合に、状況に対する思い込みの文章記述を持っていることが多い。

 

我慢づよい人とそうでない人の第二の相異は行動の仕方にある。

 

その状況に身を挺していくか(状況と自分とを一体化させていくか)、その状況から逃げようとするかの差である。

わかりやすい例はエレベーター恐怖症者である。

 

この人はエレベーターが怖い。

 

それゆえ毎朝階段を歩いて十階のオフィスに行く。

エレベーターを避けようとする。

 

しかし、この人がもしこの症状をなおしたいのなら、一日に二十回ずつ三十日間、エレベーターに乗ることである。

何回乗っても倒れない自分、失神しない自分、途中で降りない自分を体験しているうちに「私はエレベーターに乗っても平気である」と心の中の文章記述が変わってくる。

 

文章記述が変わると「怖い」という感情が消える。

 

それと同じで、つらい状況、苦しい状況(フラストレーション)に体当たりした方が苦痛、悩みが減少する率が高いといえる。

 

道元の言い方によると「滅来たりなば滅に向かいて仕うべし。いとうことなかれ、願うことなかれ」となる。

つまり「死のときがきたらじたばたするな。死ぬのがいやだ、もっと生きたいとさわぐな。死になりきれ」というのである。

 

いわば逆説療法である。

 

いやな状況・対象から逃げるのでなく、近づいていく戦法である。

たとえば酒が飲めなくても酒の席につきあう人がそれである。

 

酒を好きになろうと思うと苦しい。

酒はすきではないが、これも仕事のうちだと思えば苦でなくなる。

 

人付き合いが怖い人も逆説療法は有効的である。

 

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人生のすべてのことを好きにならねばならぬ、人生のすべてのことになじまなければならぬと思うからフラストレーションも増すのである。

 

きらいだけれどもせねばならないからする、なじめないけれどもした方がしないよりは人生が快適になる(あるいは人付き合いの苦労が少なくて済む)と考えることである。

メンタル面はゲームをする行為だけではなく、テレビゲームの中身も事態を悪化させます。

 

バーチャルな仮想現実の世界で、何をしてもOKというのは、恐ろしい錯覚を招きます。

何かトラブルが起これば、リセットによって、簡単に最初の状態に回復してしまいます。

この遊びの世界を、遊びとして区別できていれば、問題は起こらないでしょう。

少なくとも、普通の大人であれば、遊びですむでしょう。

ところが、まだ十分な社会経験がなく、判断力が十分に養われていない子どもにとっては、誤った現実認識を招く恐れがあります。

 

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ときにたいへんに悲惨な事態も招きかねません。

とくに、閉じこもりがちで、他者とのコミュニケーションを拒絶して生活している場合には、バーチャルな世界とだけ付き合っているわけですから、現実との乖離を修復する手だてがないという状況です。

とんでもない、常識で考えられないことが起こる可能性があります。

一歩間違うと、悲惨な結果を招くことになります。

呼吸法の体験によって、どのような主観的感覚が得られるかの調査結果があります。

表現の仕方はそれぞれ微妙に異なりますが、共通して言えることは、「頭がすっきりした」、「雑念が取れて心が透明になった」というものです。

 

必ずしもリラックスしたという表現は当たらない、という結果が得られました。

リラックスと反対の概念は緊張やストレスです。

被験者は、呼吸法を行う前に、必ずしも緊張とかストレスの状況になかったことが、このような結果になったのかもしれません。

問診だけではなく、心理テストを実施してみますと、不安に関する尺度が減少傾向になっていました。

そもそも、被験者はゆったりとソファーに寄りかかって、音楽でも聴いているという状況ではなく、必死になって腹筋のリズム運動を繰り返しているわけですから、むしろ、ジョギング後の爽快感のほうが、近い感覚だと思われます。

 

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「リラックスした安らぎ」ではなく「爽快ですっきりした感覚」であることを、脳波で区別できないか。

この課題について、いろいろ試行錯誤をしているうちに、目を閉じて呼吸法をやらせてみたらどうか、という着想が湧きました。

そして、試してみたところ、その結果は大いに注目すべきものとなったのです。

セロトニン神経がある縫線核は非常に小さく、ここにあるセロトニン神経の数は、人間でせいぜい数万個です。

脳全体の神経細胞が約150億個あることからすると、きわめて少ないことが分かります。

脳の中ではマイノリティなのですが、この神経は脳全体の広い領域に影響を与えます。

 

一般に神経細胞は、軸索というケーブルを使って遠隔の神経に情報を送ります。

縫線核のセロトニン神経の場合には、一個の神経細胞から数万の軸索が枝分かれして、広範囲な脳領域に結合します。

その対象は、大脳皮質をはじめ、感情脳である大脳辺縁系、生存脳である視床下部、脳幹、小脳、脊髄など、ほとんどあらゆる脳神経系に及びます。

 

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一個で万の単位を超える神経を相手にするのですから、細かな情報を伝えることは到底できません。

ちょうどオーケストラの指揮者のように、タクトを振ると、各パートの演奏者がそれぞれの楽器を奏で、曲全体の雰囲気を作るのに似ています。

セロトニン神経は指揮者として脳全体の雰囲気を作り出します。

具体的には、セロトニン神経は意識レベルや元気の状態などを演出する働きをします

いったいなぜ、キレる子どもが増えてきたのか。

まず、その時代背景から見ることにしましょう。

1980年代は、戦後復興、高度経済成長下に育った世代が、すでに親になりつつある時期とも符合します。

子を育てる親の側からすれば、多少とも戦後の貧しさ、モノ不足を経験しているものの、いつしか経済的には安定し、マイホームを持つなど、生活水準は格段によくなった時代です。

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バブル経済も絶頂期。

高学歴化は、晩婚、少子化にも拍車をかけることになり、生まれてきた子どもには、誕生とともに何不自由ない生活が約束されていたわけです。

戦後の焼け野原で育ったベビーブームの子どもたちとは、明らかに違う豊かな生活環境。

しかし、皮肉にも、そこからキレる子どもが数多く育っていくようになるのでした。

「あの上司はロクに横文字も読めないじゃないか」「経理をやっても、倍の時間がかかるじゃないか」というように、上司の技能の劣るのをみて、小ばかにしたり、「あんな上司は信頼できない」といっている若いビジネスマンがいる。

 

しかし、上司は、どんなことについても、部下より優れているとはかぎらないし、部下よりも、すべてに優れていなければならないというものでもない。

上司に必要なことは、優れた技能をもつ部下を上手に働かせる能力をもつことであることを知らなければならない。

 

このことは、オーケストラを考えてみればわかることである。

楽団の指揮者は、すべての楽器の演奏に優れているわけではなく、また、すべてを演奏できるわけでもない。

それにもかかわらず、それらの優れた技能をもつ団員を指揮し、みごとな演奏をつくり上げるのである。

オーケストラの指揮者に必要なのは、個々の技能ではなく、団員のみごとなチームワークをつくりあげる能力である。

 

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組織も同じことである。

社長に経理をやらせても、組み立てをさせても、一事務員、一工員におよぶまい。

しかし、社長は、経営や人を動かす能力をもっている。

その反対に、計算能力や組み立て技能がどんなに優れていても、それだけは、社長は務まらない。

 

このことは、技能と能力の相違ということになる。

パーキンソンは、「技能とは、何か難しいことができるということであり、能力とは、他人の努力と技術によって、ものごとを成し遂げる力のことである」といっているが、上司は、そういう意味での能力者ということになる。

だから、上司がある技能に劣っているからといって、軽んじることはまちがっている。

 

上司の技能が劣り、無能にみえることがある。

しかし、どんな上司でも、無能では上司にはなれない。

もし、上司が無能にみえるようであったなら、「上司がなぜ無能にみえるのだろうか。上司のどこが無能なのだろうか」を考え、自分の思い上がりがないかを反省してみなければならない。

上司を無能と思っていたところ自分が無能であったということがある。

無能な人間ほど他人が無能にみえるものである。

「私の職場は、付き合いがうるさくて、ノイローゼになってしまう」とか、「職場の交際のために、私生活までおびやかされる」とかいうことで悩んでいるビジネスマンが少なくない。

 

職場は職場、私生活は私生活として、きちんと割り切ることができないところに問題があるわけだが、ある程度は、煩わしくても辛抱しなければならない。

 

わが国の場合は、私生活のつきあいによる人と人とのつながりが、公の生活の上に大きな影響力をもっており、私的な付き合いによる人と人とのつながりが、公の生活の上に大きな影響力をもっており、私的な付き合いを断ち切ることは、公の生活の人間関係を断ち切ることになる。

こういうあり方は、けっして好ましいことではないが、現実は現実として、ある程度これを認めないわけにはいかない。

 

しかし、公的なつきあいは別として、私的な付き合いの中には、かなり無駄なものが多く、ゆきすぎと思われるものも少なくない。

同僚の病気見舞いや送別会、慶弔その他の団体行動などは、欠かすことのできないつきあいであるが、会社が引けてからの飲み付き合いや麻雀、休日のゴルフなどは、必ずしもつきあわなければならないという性質のものではない。

気が進まなければ断って差し支えない。

 

しかし、これらのつきあいをいっさい断るということにすれば、孤立してしまうので、「あいつは、付き合いの悪いヤツだ」と言われない程度に付き合うことも必要である。

 

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どの程度の付き合いが必要か、どこからがゆきすぎかは、職場の状況にもよるので、自分で判断するほかはない。

 

職場の私的な付き合いは、煩わしく、しばしばやりきれなくなることもあるが、一面これがあるがため、一身上の問題があったときなど、大きな助けとなることもあり、ほどほどの付き合いは欠かすことはできない。

だからといって、財を乱したり、健康を害したり、家庭生活を壊してまで付き合うことはゆきすぎである。

交際の限界もおのずと決まってくる。

 

私の知人で、誰からもよく思われたい、そして、少しでも早くよいポストにつきたいということから、無理な交際をして、ようやくあるポストについたが、無理を重ねたため多額の借金をつくり、その上健康まで害し、せっかく獲得した地位を棒に振ってしまった人がいる。

 

とにかく、職場にはつきあいのため無用な気遣いが多く、その気苦労から仕事の能率を低下させていることも少なくないので、みんなで申し合わせをし、もっとすっきりした形にすることが必要ではないかと思う。

愚痴っぽい人間は、どこにでもいるものである。

男性にも女性にもいる。

 

つぎのように訴えてきた二十二歳の女性がいる。

 

「私の課に、愚痴っぽい人がいて、毎日同じような愚痴を聞かされ、いやになってしまいます。

近頃では、聞こえないふりをしたり、なま返事をしたりして、適当にあしらっているのですが、すると、まじめに聞いてくれないといって怒るのです。

毎日やりきれない気持ちで過ごしているのですが、愚痴をやめさせる方法はないものでしょうか」

 

愚痴とは、どうにもならないことを思い出しては、あれこれと繰り返し、人に訴えることで、心のわだかまりを払いのける精神衛生維持作用の一つである。

 

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たいていの人は、ちょっとしたおしゃべりや、ほかのことをすることによって気分転換をはかり、心のわだかまりをさっぱりと払いのけるが、愚痴っぽい人はそれができないために、くどくどと人に訴えることになるのである。

 

こういう人は、誰かまじめに聞いてくれる人があれば、心も軽くなるのであるが、たいていの人はうるさく思い、聞くことを避けたり、うわの空で聞いていたり、ハナであしらったりするために、<自分の気持ちは誰もわかってくれないのだ>ということになり、わかってもらいたい一心から、ますます、くどくどと訴えるようになるのである。

 

妻の愚痴を、いつもはぐらかしていた夫が、ある日まじめに聞いてやったところ、妻が急に晴々しくなり、美しくなったという例がある。

愚痴っぽい人は、自分のことしか考えず、他人の迷惑などは考える余裕を持ち合わせていないので、本人がそのことに気がつかなければ、はたから直させることは困難であるが、うるさいと思っても、まじめに、辛抱強く、同情的な態度で聞いてやれば満足する。

 

しかし、愚痴は、自分の信頼する相手、好きな相手に対してでなければこぼさないので、愚痴の対象に選ばれた人から、折を見て、忠告してやることもよい。

また、愚痴は、いいたいこともいえず、心にわだかまりができるところから起こるので、職場でも、心おきなくなんでも話し合い、自由に話すことのできる雰囲気をつくっておくことも大切である。