会社で忙しくしていると、自分のメンタルは意外と見えなくなるものだ。少々のことでも「大丈夫」と思ってしまい。「痛さ」を忘れてしまう。……この状態、実は危険なのではないかと思う。痛みを感じないことは、身体が壊れても「大丈夫」と勘違いするからだ。
さて、ここで取り上げるのは自分の仕事のエピソード。病人の価値観も見えるかも知れない。……ただ、これは躁鬱病患者である自分の価値感。もしかすると、読者諸氏には参考にならないかも知れない。ご勘弁願いたい。
躁鬱病患者である自分の仕事
仕事には面白いものと面白くないものがある。
面白い仕事は時としてエキサイティングであり、駆け引きなどもあり、さらにはスリルなどもあるだろう。
株式投資などのトレーダーは判断のタイミングにより発生する収益が相当に異なる。気が付いたら値を下げていて、せっかくの利益のチャンスを逃すことにもなり得るからだ。
また、下がっている時などもタイミング次第で損失を抑えることもあるのではないだろうか。
その一方で、面白くない仕事もあるものだ。
例えば、水汲みなどの仕事はどうかと思う。
日本では水道の設備が整っているため、あまり仕事とはならないかも知れない。しかし、大昔の日本では水汲みの仕事があった訳だし、アフリカなどの発展途上の地域では、いまだに水汲みはあるだろう。
もっとも、その仕事をしながら雑談を楽しむことも、もしかしたらあるかも知れない。
ただ、仮に話相手が居なかったら、非常に苦しくなることだろうと思う。
「人生は重き荷物を持って坂道を上るがごとし」とか言った人もいるようだが、それを喜んでいる人は特殊な人なのであろう。ある人はその人を「マゾだ!」と言い切った。
ちなみに、そのマゾのような仕事を自分は長年やっているらしい。
仕事に対する躁鬱病の自分的考え方
そんなこんなで仕事は2つあるのだが、改めて言うと、自分の携わる仕事は後者。どんな作業かは明かせないが、とにかく面倒臭いだけの単純作業だ。
ある人に作業内容を話したことがあったが、即座に「飽きないの?」と聞いて来た。要はそれだけ面白くないのだ。
まぁ、仕方ない。躁鬱病を抱えながらでは可能な仕事は限定される。仕方のないことなのだろう。
では、自分を慰める手段(そっち方面の意味ではない)はあるかと言うと、実はある。
作業の内容に対しては意外に賃金が高いのである。
賃金の決め方はケースバイケースなのだろうが、就労先の状況によって大きく変わる。気前の良い会社もあればケチな会社もある。
……たまたまではあるが、自分は気前の良い会社に世話になることが出来た。
おかげで自分は退屈な仕事を続けられている。
「面白くないんでしょ」ともしかしたら言われるかも知れないが、それに対してはこのように言うことが出来る。
「仕事の割りには賃金が多い。ある意味でボロ儲けさ」と。
ただし、これは躁鬱的な考え方なのかも知れない。まあ、認知行動療法の一環とでも思って、カンベンして欲しい。
終わりに:仕事について考えて
今回は仕事の面白みとメンタルヘルスの関係を書いてみた。自分で改めて自分を見て、「なんて図々しい奴なんだ」とも少し思ったが、そこを「図々しい」と考えられないのが躁状態なのかも知れない。
いずれにしても困った状態なのだろう。……困っている自覚は薄いけど。
【関連記事】
【広告】
Amazonからこんな本を出しています。
よろしかったらどーぞ見てやってください。↓


