【遠藤鮎美の12年間】1度目の離婚と子供との別離 鬱・夜の仕事・年下男へ貢ぐ生活数年 | ”自由を創造し喜びあふれ輝く”が経営理念の理想に導くプロ!ビジネスコンサルタント遠藤鮎美のブログ(福島県、栃木県)

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起業歴10年 物販・講師業・セラピスト・フォトグラファー!好きな事で自分の人生を生きる私のマインドやコツを紹介してます!過去には2度の離婚、12年間会えなかった娘の死。死を意識した事もありながら強くしなやかに生きる遠藤鮎美のブログ

12年ぶりの妊娠で感じたこと


妊娠8ヶ月を迎えた今・・・

出産まであと約80日となり、日々感じる赤ちゃんの胎動や成長に、なんとも言えない愛おしい気持ちに心満たされ穏やかな時間を過ごしてます。


自分がまた赤ちゃんを授かるなんて、10年前の私は全く想像もできてなかった!

だって私は『二度と子供を作ってはいけない』と自分に制限をかけていたから。

そんな風に思っていた私が、今こうしてお腹に赤ちゃんを宿すことが出来ている。

その経緯をお伝えすることで、同じことで悩んだり、不安に思ったり、悲しい気持ちになってる方に力づけがしたいと思ってお話ししようと思う。


本当に赤裸々な遠藤鮎美の12年間

長くなるので何回かに分けて。




①1度目の離婚と子供との別離

鬱・夜の仕事・年下男へ貢ぐ生活数年
ダメ女まっしぐらだった20代前半の私


①のタイトルだけでも衝撃的な感じもしますが、私は離婚歴が2回あります。

1度目の結婚は20代前半。
いわゆる“出来ちゃった結婚”
当初お付き合いしてた4歳上の彼(以下Hくんとする)との間に女の子を授かりました。

妊娠中も会社勤めをしていたので一度切迫早産で入院もありましたが、出産は分娩台に上がって20分の安産。

2010年1月某日
3,144gで生まれた娘は遠藤家でもHくん家でも初孫の娘。
それはもう可愛い可愛いと育てられました。




子供は可愛いし毎日幸せだったのですが、Hくんとの間に不和が生じてきました。
理由は“お金”。

貰うお金より使うお金の方が多く、ギャンブル癖もあって、私が貰っていた育休手当てがあるからやっと生活ができていて。

住んでいる所は福島県白河市。
元夫Hくんの勤務先は30km離れた福島県郡山市。
Hくんはなぜか毎朝の出勤で高速道路を使っていて、その高速代とガソリン代の交通費だけでも毎月の出費が大打撃!!
「早起きして仕事に行けば良いじゃない?」と言っても「俺の金をどう使おうが勝手だろう」と言う人だった。

お互いの親にも援助してもらう事もあって申し訳なさと不甲斐無さを感じ、お金の事でしょっちゅう喧嘩になるように。

毎月の食費を計算し、光熱費をいくら抑えても、彼自身の浪費癖やギャンブル癖が治らないので結局赤字。

「Hくんのお給料だけでは生活ができないから転職をお願いしたけど話を聞いてくれないので、お義母さんからもお願いできませんか?」と姑に話しをした時に

「鮎美がもっと節約すれば良いじゃない?!」と姑に言われた時に『あぁ、もう無理だ』って自分で頑張るのをやめた。




その時の私は疲れ果てて、化粧品だって買うのもやっとで、服もいつも同じ。
食費だって毎月1万5千円で収まるように、お風呂の残り湯は洗濯物にも使うけど、バケツに組んでトイレを流すのにも使ってた。
電気は暗くならないと付けてなかったし、なるべく月の出費が出ないように毎日毎日節約することばっかり考えて。

それでも何も変わらない彼が目の前にいると、イライラしてきて毎日口喧嘩をするようになり、その後別居することに。

結婚生活約2年で離婚。
調停で離婚を決めた時に娘の親権は元夫に。

なぜそうなったかの経緯はここではあまり触れたくないのと、思い出しても悲しくなるから割愛しますね。
一つだけ言えるのは私は娘を手放したくなかった。


その後、私は娘を手放した自分を責めて鬱になり2年ほど社会とコミュニケーションアウトします。

昼夜逆転の生活、暴飲暴食・・・
精神的にも肉体的にも最悪の状態でした。

いつまでも仕事をしないわけにはいかない、でも、昼夜逆転生活のその時に普通の会社で働くことは無理だった私は地元の飲み屋さんで働くことに。

嘘をつく世界、本当の名前じゃない別の自分でいられる夜の世界がその時の私には居心地が良かった。
離婚して子供と離れてる、なんて感じさせないくらい明るく振る舞った。
お客様と喋ったり、同伴やアフターでご飯に行ったり、お店でカラオケしてる時には辛い事も忘れられた。

がんばりが認められてお店を任されたりもしてたから、夜の仕事だったけどやり甲斐も感じてた。

その時、私には年下の彼氏がいた。

確か5歳か6歳下の彼(以下Rくんとする)

これまたとんでもない男だったのだが、Rくんが余りにも最悪だった事がきっかけで私は普通の生活に戻ることができるようになる。

何が最悪かと言うと、彼は普通に私の実家に住み着くようになった(笑)
それを許してしまう自分にも落ち度はあるのだが、それだけに留まらず仕事をしないRくんを私は養っていた!!

離婚→年下男を養う
という、どう考えても悪い状況まっしぐらな私。


その彼は、両親が幼い頃に離婚し、母親は家を出ていて父子家庭で育ててもらったらしく、母の愛に飢えた人だった。
父方の祖母からは母の悪口を聞いて育ち、両親の離婚理由は知らないと言っていた。

そんな彼が娘と被っていたのは言うまでもない。
彼にしてあげる事で娘への罪滅ぼしをしている、と錯覚したかったのかもしれない。

夜の仕事の稼ぎが良かったからできた事だと思うけど、彼の洋服買ってあげたり彼の衣食住に関わること全部サポートしてたその時の私は、まさにホストに貢ぐ可哀想な人の図だ。

数ヶ月が経ち実家に居づらくなった私はアパートを借りた。
もちろんR君もついてくる(笑)

家賃や光熱費を入れない彼と喧嘩になるように。
その時はアルバイトも始めていた彼だったが、自分の必要なものを買うので精一杯で、私が養うのには変わらなかった。

喧嘩がエスカレートして警察が来た事も一度あった。
でも、そんな生活は長く続くはずもない。
それに私の両親も心配して様子を見にくるようになる。

私も同じことの繰り返しに疲れて、ようやく別れることを決意。
「アパートを引き払うから出て行って」と言った。
「俺はどこに行けば良いんだよ」と言われたけど、どこにでも行ってくれよと思った。


私と別れた彼は東京へ行き、その後端正な顔立ちを生かしてショップ店員になり、とある雑誌にも載っていたのを見た時には驚いた(笑)
「彼が幸せそうで良かった」と思える私がそこには居たのだから不思議。


その後、私は母と暮らし始める。

その頃妹が娘を出産したのだ。
それはとてもとても可愛い女の子で小学中学年になった今でも、私は自分の娘のように思って可愛がったり叱ったりしてる。

でも、その頃は姪を見ては「娘に似てる〜」と思い出しては泣き、妹や家族をどれだけ困らせただろうか。
そのうち私はあまり娘のことを家族の前で語らなくなった。家族もそれに配慮して、私に娘の事を言うことは少なくなっていた。


母と暮らし始めたのと同時に夜の仕事も辞め、昼間の仕事の面接にも行くようになる。

つづく。。。