気づかないまま通り過ぎていた古びたさび色のドアを

ふとした思いつきから叩いてみることにしたのは

今日久しぶりに会った人に

「変わったね」と言われたせいなのか

ヒールのかかとを直したせいなのか

よくわからないけれど

Y子はそのドアに軽く握ったこぶしをそっと触れさせてみた。

思ったよりも甲高い音がY子の好奇心を少し揺さぶったが

それでも

今日は荷物がいつもより少ないのと

夕焼けまでにまだ少し時間があるので

もう一度けたたましい音を立ててドアを叩いた。

「誰もいないのかなぁ。」

分かり切ったことだけれど、

そこから不作法なしかめっ面のおじいさんか

当たり前のように客を迎えるバーテンなんかの類の人物が顔を出すのではないかという想像もあったわけで

やはりおとぎ話やら都市伝説みたいなものは

架空のものなんあろうなぁと納得して

Y子はそっとそのドアのノブを回してみた。


ドアは開いたのか?

ていすと いっと じゃすと とぅー ふぃーる わっと ゆー わんと


げっと みー いん ざ ふぉれすと


すてぃあー あっと みー 


ふぃぎゅあ いっと あうと


すろうりー ゆー かむ にあ みー


すろうりー ゆー かむ いんとぅー まい 




絆は生まれそしてほどける

果てないさすらいの君

あでゆく若椿

つたない言葉

したたらずな相づち

彼女は舌を絡めて荷物を下ろす

大きな木が立ち並ぶ森の名はノルウェイ

ねぇ、

距離を感じるよ


距離を感じると

どうしても口ばかり


あのころの情熱は何だったのかしら

音楽がだいすきだった

彼女は二つの頭を持った白銀のライオンについての物語が

部屋を掃除してて見つけた普通のノートに書き連ねられているのを発見した


その物語が書かれたのは一昨年のことで

その前後にはまだ当時いろいろなことに不満を持っていた彼女の、素直で稚拙な愚痴が書かれていた


いろいろな人に恋をしたこと

ちいさなことで浮き沈みした幼い心


彼女は幸せだった


彼女はある人の帰りを待っている

伝えたい言葉があるって 言ってたっけ

甘い甘い声に羽生やして

伝えたい言葉があって ため息に込めて


わかってないって 泣いて 泣いて 泣いて 泣いて

責める期待も

嫌いだって 吐いて 吐いて 吐いて 吐いて

意地の数だけ


そういう気持ちの恋も そういう気持ちの恋も

そういう気持ちの恋も 知ってる

そういう気持ちの恋を そういう気持ちの恋を

そういう気持ちの恋を してる


言えない想いがあるって 言ってたっけ

深い深いそこに根をおろして

言えない想いがあって ため息に込めて


欲しくなんか無いって 泣いて 泣いて 泣いて 泣いて

響く痛みも

この絵に 描いて 描いて 描いて 描いて

これが始まり


そういう気持ちの恋も そういう気持ちの恋も

そういう気持ちの恋も 知ってる

そういう気持ちの恋を そういう気持ちの恋を

そういう気持ちの恋を してる


そういう気持ちの恋も そういう気持ちの恋も

そういう気持ちの恋も 知ってる

そういう気持ちの恋も そういう気持ちの愛を

そういう気持ちの意味を 教えて

貴方は誰?って何度も聞いた

深い深い痛いほどに柔らかな夜

誘う指に鱗粉がからみつき

冷え切ってきしきしと痛む右腕が悲しく


どうしたって逃れられないほどに

絶えず絶えず増すこの虚空の部屋に

閉じこめられているって思っている



春をひさぐもの

そんな言葉を知っている自分とは

いつかどこかで落としてしまったなにかの記憶を持っているような

そんな女なのかもしれなくて

時々自分を把握していないことに恐ろしいほどのとまどいをおぼえる


一番恐ろしいこととは何か、と言えば

ふと気づいたときに自分一人が置き去りになっている状態


桜の木の下に居るあの女の

髪を櫛で削ってあげよう

そうして春が来るように

この年も花の舞い散る艶やかな空気の中で春が死ぬように


桜の木の陰に居るあの女の

口に紅を点してあげよう

そうして春が始まるように

いつか忘れ得ぬ美しい思い出に春がいつまでも生きるように


また次の年も桜の木とともに息を吹くように

あの蝶々の舞うすこし刺すように涼やかな春の夜が

ただひとつの愛というものが

本当にあるとしたら

それは綺麗にカットされたダイヤモンドなのか

焼き上げられた陶器なのか


強情っぱりの彼女が素直にyes.と言うとき

彼の瞳は輝くのだろうか


say hello to me


部屋には何もない


say good night to me





由紀はクリスティを読んでいた

大きな白いデッキチェアーに横たわって

由良は姉の足下で寝転がって、次第に赤く染まってゆく東の空を眺めている

松子はベランダの手すりに寄りかかって

タバコをくゆらせる

水平線に一筋の光線が一気に広がって

そこから生まれ落ちるみずみずしい太陽が

由良の顔を正面から照らし

松子の緩やかで細長い肢体を後ろから照らし上げた

由紀はまぶしそうに顔をしかめ、

肘をついていた丸いテーブルの上の

木の葉の装飾のランプをぷちりと消した

由良は立ち上がってキッチンの方へ歩いていった


一週間ほど毎日繰り返された夜と朝焼けがまた彼女たちを迎える


その白い簡素でしたたかな木造の家は

この3人の夏の思い出の家であり

また姉妹の父の思い出でもあった

ヨットを趣味としていた彼女たちの父は

夏になると娘たちを連れて一ヶ月ほどこの家で夏を過ごした

娘は海に関心を示さなかったが

父が繰るヨットの帆や

その白い船体の優美さを愛した


白いホットパンツを履いた細く綺麗な脚の由良は

ばらばらのコーヒーカップを3つと大きなポットを持ってベランダに戻ってきた

松子は由紀のそばのテーブルの上に置いた貝殻に10本目のタバコを消した


「マープルみたいに背中が曲がってるわよ」

めがねを外していかにも目が疲れたというような仕草をした由紀に、松子が皮肉っぽく言った


由紀は、「情婦」を読んでいた

この夏はクリスティを読破すると宣言し、

今はちょうど、ポアロとパーカー・パインにさよならをして

短編集に移ったところだった


「おばあちゃんの話だと思うと気が乗らないのよね。

クリスティの話には美男が少なすぎるわ」


由良は、気持ちよさそうにのびをして、短く切りそろえた髪の毛に手を埋めた

「私、下へ行って泳いでくるね」

と言って、カップについだコーヒーを熱そうにすすると、

杭にかけてあったローブを取って下へ降りていった



由紀は海岸を歩いている

由良は海岸を歩いている

松子は海岸を歩いている


このうち二人は姉妹であり

今この世界に居るのはこのうち一人


寄せる波は期待の具現

引く波に夜明けの瞬きを見る


夜風にひとちらの春が感じられる頃

由良はひとり海岸で手紙を読む

がっかりだ

自分にがっかりだ

周りにがっかり

精一杯にごまかしたり

気張ってみたり

気分転換したりね

何かを解決しようともがくことを

ふとやめようとしたら

突然涙が出そうになった

でも涙は出ないんだな

誰かに話したい

でも

誰にもかれにもきついことを言われそうで怖くて

電話もできないんだ

会ってくだらない話をするだけでも良いのに

そんなふうに誰かに甘えることが本当にへたくそで

何本も何本もタバコを吸って

何杯も何杯も紅茶を煎れた

これはいままでの寂しさとは違う

名前のない感情その2だね

チョコレートが食べたいな

思いが募るのが終わると

そこはかとない空しさにおそわれる

空しいなんて言葉を

思いついたのはいったいだれ?


なんでかってこの

くそ寒い部屋で

ろくに服も着ずにね、

ねぇ、待ってるよ

優しい一言をね、

ねぇ、期待してる


ギターの高鳴る1弦に巻き上がる思い

バブーシュを履いた彼女の手が

そうやってなまめかしくネックを撫で上げる

そんな官能的な仕草にふさわしい

そのサテンのスカートを破いてしまいたいの

その下の柔らかな腿にぱっくりと赤い裂け目を入れてみて


降る星に願いなんて恥ずかしすぎるって

神様がたしなめてる気がして

そっと睫を伏せて街を歩いてみた

自分の歩く姿が好きって思ってる

しゃんと背筋を伸ばしていたいって

信号を見上げて思う

目に光の映る潤んだ瞳の女の子になりたいって思う

そうすればどこかで

あんな人に認められるのかもって、

そんな風にね、

ねぇ、思ってしまってるよ。