高橋ナオト リングから生きる勇気を発信した「逆転の貴公子」気弱な少年から日本王者へ | ボクシング・メタボリック

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ボクシングに魅せられて41年。阪神タイガースファン歴40年世界戦初生観戦は1983年西は熊本・福岡・沖縄とおそらく300試合は越えている。海外デラ・ホーヤとトリニダード戦を観に行っただけ。ニューヨークの殿堂はたった2回。現地速報や新聞情報貼り感想書いてます。

高橋ナオト リングから生きる勇気を発信した「逆転の貴公子」気弱な少年から日本王者へ…


世界チャンピオンがいなかった時代でしたが、今の世界チャンピオンよりも遥か私達を魅了してくれました。
スポーツ報知からですが、是非一読して下さい.



ミットを持ちパンチの指導をする高橋ナオト(カメラ・近藤 英一)
 天性のカウンターパンチで「逆転の貴公子」と呼ばれたのが元日本バンタム、スーパーバンタム級王者の高橋ナオト(56)だ。高校在学中の17歳でプロデビューすると、劇的な逆転勝利であっという間にボクシング界のスターへと駆け上がり、マーク堀越に挑戦した日本タイトル戦は伝説として語り継がれている。「後楽園ホールのヒーローたち」第9回は、引退から33年、「ホールの申し子」高橋ナオトに気弱な少年がなぜボクサーになり、チャピオンになっていったのかを聞いた。(取材、構成・近藤英一、敬称略)

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 かつての後楽園ホールのスターに話を聞こうと、都内のジムに足を運んだ。日曜日の午前にボクシング教室を主宰するナオトは、高校生から社会人の十数名を前にパンチの指導をしていた。

 「34年前の今日は何があったか知ってますか? ノリとの第2戦に破れた日なんです。世界前哨戦として試合に臨んだんですが…。当時、自分の中では世界挑戦はできるものだと思い込んでいました。でもね、元をたどれば世界チャンピオンになりたくてボクサーになったわけじゃないんです。人として、相手にしっかり言いたいことが言える強い人間になりたくてボクシングを始めたんです」

 偶然だった。ナオトが言う34年前とは1990年2月11日の東京ドーム。統一世界ヘビー級王者マイク・タイソンがジェームズ・ダグラス(ともに米国)に敗れ世紀の番狂わせとなった一戦の前座でタイ王者のノリ・ジョッキージムと再戦した日だ。前年5月の第1戦は逆転KO勝ちしたが、第2戦は6度のダウンを奪われ判定負けした。世界挑戦が遠のく敗戦に周囲は落胆した。当然、ナオトも悔しさを味わっていた。が、世界挑戦を逃したという絶望感はさほど感じていなかった。「何とも言えない複雑な気持ちでした」

 中学2年、14歳の時だ。野球が大好きなナオト少年は放課後の練習が楽しみで仕方がなかった。レギュラーではない。補欠でもボールとグラブ、それにバットがあれば満足だった。充実感のある日々は、突然壊れた。友人だと思っていた数人の部員の会話からこんな言葉が聞こえてきた。

 「ナオトってさ、いらないよな―」

 すべてが嫌になり野球部を辞めたが、すぐに後悔した。「何で好きな野球を辞めてしまったのか。あの時、自分は相手に何も言い返すことができなかった。自分が弱いから何も言葉が返せなかったんです。子供ながらに自分の弱さに嫌になり、自己嫌悪に陥った」と回想した。打ち込むもののない日々は虚無感しか無かった。

 強くなりたい―。どうしたら強い人間になれるか。もんもんとする中、テレビから映し出されたスーパースターたちの激闘に「体の中に電気が走った」。シュガー・レイ・レナード―トーマス・ハーンズ(ともに米国)のWBA、WBC世界ウエルター級王座統一戦。2人のスーパースターがまぶしかった。「ボクシングを頑張って自分を変えよう。自分に自信を持って、人に意見を言える人間になろう」そう決めると、中学卒業式の日に地元のアベジムに足を運んだ。

 世界チャンピンを夢見てプロボクシングの世界に飛び込む選手が多い中、ナオトは全く別の思いを胸にボクシングの道へと進んだ。気弱な少年は、アベジム会長の阿部幸四郎のスパルタ指導の下、あれよあれよという間に後楽園ホールを熱狂の渦に巻き込む選手へと成長を遂げる。80年代後半、ナオトは関係者らの目にどう映っていたのか。日本ボクシングコミッション本部事務局長の安河内剛はこう表現した。

 「伝説です。マーク(堀越)戦は、今でも鮮明に覚えているし、後楽園ホールで行われた試合では私の中では三本の指に入るファイト。新人王戦の頃からほとんどの試合をカウンターで倒して勝っていたのを覚えています。ジムの環境から考えても、よくあんなに強いチャンピオンが誕生したと思う」

 国際マッチメーカーで評論家のジョー小泉も唯一無二の存在だという。「スタイリッシュなスピードスター。当時は世界を狙える選手だと思っていた。カウンターパンチでファンを魅了したあの時代のスターです。大げさではなく、あんなカウンターパンチを打てる選手はそうはいないでしょう」

 観る人の心を熱くするファイト。そんなナオトの姿は、絶望感を抱く人たちの心の支えとなった。「現役時代にいただいたファンレターですが、3人から自分の試合を観て自殺を思い留まったという内容の手紙をもらいました」。倒れても、倒れても立ち上がり打ち返し、最後は逆転する。リング上から発散するエネルギーに勇気づけられ、手紙の主は再び生きる活力を取り戻したのだという。「引退してから手紙を送ってくれた2人にはお会いしました。1人は女性で、もう1人は男性。2人とも立派な社会人になっていて、男性の方は社長をやっていました」と誇らしげに笑った。

 1989年1月22日、日本ボクシング界屈指の名勝負といわれるチャンピオン・マーク堀越(八戸帝拳)に挑戦した日本スーパーバンタム級タイトル戦。6連続KO防衛中の王者に挑んだナオトは「正直、少しビビっていた」という中、4回に2度のダウンを奪う。8回に逆に倒されるが、9回に2度ダウンを奪い返しKO勝ち。毎回攻守が入れ替わる文字通りの死闘。勝ったナオトは3回に受けた右ストレートで記憶が吹っ飛び、8回までは何も覚えていない。4回にダウンを奪っているが、その回の終了後にコーナーに戻ると、セコンドに発した言葉はこうだった。

 「今、カウントしているコールが聞こえましたが、自分がダウンしたんですか!?」

 会長の阿部は声を大にして言った。

 「お前が倒したんだ。しっかりしろ」

 試合後の勝利者インタビューでも「ボォーとして何を聞かれているのか分からなかった」と質問に対しての答えが全くかみ合っていなかった。本能だけで戦い、日本タイトル奪取に成功したこの試合は、世界戦を押さえて、その年の年間最高試合を受賞している。

 リングに上がればファンの心をわしづかみにするボクサーはどんな環境で、どんな練習をしていたのか。それはお世辞にも「恵まれた」とは言えない環境で日々の努力を重ねていた。(続く)                   
高橋ナオト 研ぎ澄まれたカウンターパンチは会長の奇想天外なアイデアから誕生 冬場は地獄の減量、ストーブさえあれば…後編



3/20(水) 7:00配信



1991年1月12日の朴鍾弼戦。高橋(左)は9回KOで敗れ、身動きひとつできずに担架でリングを去った。その後、脳内出血が判明して現役引退。
 17歳になったナオトはプロテストを受け、デビューした。その理由は「お金が欲しかったから」という。当時の生活はハードだった。 

 「起きるのは夜中の3時。それからロードワークを10キロして、朝の6時から8時まで弁当屋でアルバイト。終わってから学校に行って夕方6時から2時間のジムワーク。それがサイクルでした」

 今だからこそ笑って回顧するが、ジムの環境はお世辞にも「良い」とは言えなかった。

 【ストーブ激怒事件】ジムが建て替えられ綺麗になったはいいが、ストーブなどの暖房器具がなく室内は常に底冷え状態。吐く息は白く、掃除に使うためバケツにはった水は凍っていた。減量には室内の温度を上げる必要があるため、ジムの仲間から出世頭のナオトへ「会長にストーブを入れてほしいと言って下さい」と頼まれ、直訴したが一喝された。「甘ったれるな」。アベジム会長の阿部幸四郎は続けてこう言った。「韓国のボクサーはもっと寒いのに頑張っているんだ。甘い事を言っているんじゃない」と、なぜか韓国との比較論になり話は終わった。

 【地獄の冬減量】真冬の季節は室内の温度が外とほぼ同じ。暖かければ簡単に1キロくらいは落ちるだろうが、いくらジムワークで動いても300グラムが精いっぱい。試合3週間前からは絶食。水も飲めない。たまに口にするのはしいたけ2枚。「冬場の試合は最悪。減量ができないんです。現役時代4回負けているんですが、その内3回が1、2月の試合。その時期に試合を組まれても、万全のコンディションを作るのは無理でした」

 【着過ぎて動けない】ジム内が寒いため汗をかくためには常に厚着が必要だった。汗をかくために雨がっぱを着てその上にセーター。そして最後に作業現場で着る厚手のジャンパーを羽織ってスパーリングをしていた。「動きづらいなんてもんじゃない。そんな格好してスパーしているジムなんて聞いたことない」

 すべてストーブ一台あれば解決したのだが…。冬の減量には泣かされた。それでもプロ23戦で計量でのオーバーは一度もない。アベジムが空いているのは午後6時から午後8時のわずか2時間。プロや練習生が集まりジム内は大混雑するはずだが「2月のジムなんて寒すぎて誰も来ません。自分が練習していてもジムはガラガラでした」

 そんな状況下で練習に励みながらも、代名詞のカウンターを武器に2階級で日本王座を手にした。現役時代のベストファイトは何か? 伝説のマーク戦も上位だと言うが、NO1は「大阪での全日本新人王決勝戦」だという。1986年3月4日、全日本新人王バンタム級決勝戦で西軍代表の片山清一(大鵬)に2回KO勝ち。最優秀選手賞を獲得した。

 この試合を決めたのがカウンターの右ストレート。会長の阿部からの指示は想像できないものだった。

 「相手の片山はこれまで右アッパーで3連続KO勝ちをしている。相手の右アッパーには、カウンターの右ストレートで対抗しよう」

 ナオトはあ然とした。「何で右アッパーに対して右ストレート? 全く思いつかないパンチでした」。決勝戦前、阿部の言うがままにカウンターの練習に終始した。「リングではその通りやってKO勝ち。自画自賛する勝利で、自分では思いつかなかったパンチでした。そういう意味では阿部幸四郎(会長)という人物はすごい頭を持った人かもしれないと思った」。その後もカウンターパンチで劇的な勝利を積み重ねていった。「正直、カウンターのことを考えて試合をしたことなどありません。カウンターが得意になった理由? はっきりとは分かりませんが、ひとつ言えることは阿部幸四郎の力じゃないですか」と恩師に感謝した。あの時、ひたすら練習した右ストレート。体に染みついた感覚で倒し続けた。マーク堀越(89年1月、9回KO勝ち)、ノリ・ジョッキージムとの第1戦(同年5月、3回KO)、打越秀樹(同年10月、6回KO)。どの試合もファンの心に突き刺さる熱いファイトだ。

 全日本新人王、A級トーナメントでともにMVPを獲得。日本タイトルは2階級を制覇。周囲の世界への期待は大きくなるばかりだった。その期待度を表すように試合を中継した日テレビでは土、日曜の午後にナオトの試合を6試合生中継している。マーク堀越戦に限っては計量も生中継されたのだが、倒し倒されという死闘の代償は大きかった。91年1月、韓国王者・朴との試合で9回KO負けすると担架に乗せられリングを降りた。脳内出血。現役を引退した。まだ、23歳だった。

 気弱だった少年は、他人に何を言われても気後れしない大人になった。数年後にはボクシングジムの会長に就任する。プロを育てる立場になり改めて現役時代を振り返った時、自信だったものが過信に変わった。「俺ってすごいことをしてきたとつくづく自分に酔ってしまったんです。当時は『俺だったら何をやっても大丈夫だろう』と思っていたし、天狗になっていました。引退してからまた違う自信を持ってしまった」と後悔する。周囲の意見に耳を傾けず意のままに突っ走る。孤立して40歳で会長の座を辞した。その後は知人の紹介でボクシングとは無縁の仕事に就いたが、たどり着いた先は「自分ができることはボクシングを教えることだけ」と、現在はボクシング教室やフリーのトレーナーとして後進の指導に当たっている。

 高橋ナオトは世界に届かなかった。挑戦の舞台にさえ立てなかった。それでも「伝説の男」として語り継がれている。(近藤 英一)=敬称略、おわり

 ◆高橋ナオト 1967年11月17日、東京・調布市生まれ。中学卒業後にジムに入門。都立農業高校入学後にアマデビューして戦績は16勝4敗。高校在学中の85年2月にプロデビューし、東日本新人王、全日本新人王、A級トーナメントでいずれもMVPを獲得。87年2月に今里光男を5回TKOで下し日本バンタム級王座を獲得。89年1月にマーク堀越を下し日本スーパーバンタム級王座を奪取。91年に引退。プロ戦績は19勝(14KO)4敗。身長170センチの右ボクサーファイター。