私のジャズ談義② | C'est ma vie

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毎日平凡でいられることの、非凡さを求めています。

 

今日は「フリージャズの功罪」というテーマで、持論をのべさせていただきます。

 

一部のジャズ愛好家の方からは、もしかして大ヒンシュクを買うかもしれません。

 

私は、ジャズは好きですが、理論的では決してありません。

 

その所が、説得力を欠くかもしれません。

 

少し、感情的になる、幼児性があります。

 

しかし、敢えて、語ります。

 

一つだけ、申し上げたいのは、以下の文章は、批判ではありません。

 

音楽は自由です。

 

好みも、人それぞれ違います。

 

 

まず、最近日本のジャズの人気がやや下火になった気がします。

 

私が、ジャズの世界に踏み入れたのは、1970年前半でした。

 

その時代は、ジャズは全盛期でした。

 

ジャズを聴くということは、オシャレで、カッコいいという風潮でした。

 

ジャズ専門誌も「スイング・ジャーナル」を始め、数誌出版されていました。

 

しかし、私、その頃は、アドリブ演奏は分かりませんでした。

 

即興演奏なのだから、その演奏中に作曲しているのだと思っていました。

 

まあ、ほぼ間違いではありませんが。

 

そして、当時から一部の音楽愛好家の人から耳にしたのが、

 

「ジャズは難しく、分からない」という言葉でした。

 

それは、ひとつには「アドリブを聴きこなす」能力に欠けていたからでしょう。

 

しかし、ジャズを庶民から引き離したのは「ニュー(フリー)ジャズ」の登場と思っています。

 

フリージャズといっても、最低限の規則の上で演奏するのと、

 

全く、自由に、何の制約を設けずに演奏するのとがあるのです。

 

聞き手にとっては、主題が見えないのです。

 

演奏者が創り出す、音の洪水しか、耳に入ってきません。

 

しかし、一部のジャズ愛好者には、この無制限的、無知序的音の洪水が快感ともなるのです。

 

テーマは必要としません。

 

演奏者の感性と、聞き手の感性の共存、またはぶつかり合い、最後は協調し終わる。

 

ところが、ジャズを大衆に広めたいと考えたなら、無理があります。

 

以前はダンス音楽であったのが、バップ、ビバップと変遷しました。

 

バップの頃から、アドリブがジャズにとっては、かなり大きな要素となりました。

 

しかも、それはコード進行に従うという取り決めがありました。

 

大衆の人にとっては、このアドリブの解釈が、難関の一つとなりました。

 

良いアドリブと悪いアドリブの違いを見極めるには、相当多くの演奏を聴きこまないと習得できません。

 

また、多少その楽器に精通していると、解釈も早いとは思います。

 

そのように、アドリブをいかに聴きこめるかが、モダンジャズには必要な要素となったのです。

 

そして、そこに新たに「ニュー(フリー)ジャズ」が登場したのです。

 

それでなくとも、一般人にとっては、敷居の高かったアドリブが、まさにほとんどアドリブだけの演奏になってしまったのです。

 

もちろんオーネット・コールマン等、世界的に評価が高かったプレイヤーも多数いました。

 

しかし、「ニュー(フリー)ジャズ」が、ますます、一般人を、ジャズから遠ざける一因となったと思っています。

 

私が、言いたいことは、もちろん「ニュー(フリー)ジャズ」が悪いと言っている訳ではありません。

 

ただし、ジャズをもっと広めようとしたら、弊害とはなりうるでしょう。

 

ジャズが一部の愛好家のもので、それが何か特権であるかのような錯覚も生み出しました。

 

多くの一流プレイヤーが、晩年は「ニュー(フリー)ジャズ」へと移っていきました。

 

ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス等が代表格でしょう。

 

それでは、なぜ、彼らが「ニュー(フリー)ジャズ」へと移っていったのかです。

 

それは、音楽的に行き詰まりを感じていたかもしれません。

 

これは、私の私見です。

 

そして、その打開策として、アフリカ、アジア、また、神的へと演奏が移っていったのではないでしょうか。

 

そこに登場するのが、「ニュー(フリー)ジャズ」です。

 

コード進行、拍子、要するにジャズ演奏の決まり事を無視するのが、ほとんどです。

 

ジョン・コルトレーンは正に、晩年「ニュー(フリー)ジャズ」へと導かれていった、典型的なプレイヤーです。

 

彼は、晩年は、管楽器もピアノも入れない、彼(サックス)とドラムスだけで、演奏しました。

 

また、ピアノが入っている場合でも、自分のアドリブの際には、休ませていました。

 

また、他の楽器がアドリブを取っている時も、彼は傍観していました。

 

彼が、1965年に日本公演をしました。

 

この時代は、ニュージャズが広まっていました。

 

そして、その顕著なものは、管楽器奏者はピアノをオミットすることでした。

 

管楽器の出す、アドリブ時の十二音階から離れたかん高い音に、ピアノがついてこれないのです。

 

この日本公演では、ピアノは随行していました。

 

それは、ピアノはコルトレーンの奥さんだったからです。

 

ニュージャズ管楽器演奏家にとって、生真面目にコード進行を進める、ピアノは邪魔だったのです。

 

話は、「フリージャズ」へと戻ります。

 

或る意味、「フリージャズ」は演奏家にとって楽かもしれません。

 

特に、ソロ演奏の場合は、ほとんどの決まり事を無視できます。

 

一番大きいのは、コード進行を必要としないからです。

 

何しろ、モダンジャズの演奏家の人たちですら、自分がアドリブソロを演奏している時、どの位置にいるのか分からなくなることがあると、白状していました。

 

その、厄介なコード進行を無視して、自由気ままに演奏できるのですから、これほど演奏家にとって楽なことはないでしょうか。

 

もちろん、アドリブの多くは、コードからインスピレーションを得ますので、その分は多くの引き出しが必要となります。

 

たとえば、フリー演奏をしているピアノ演奏者に、他の楽器は合わせるのは至難の技だと思います。

 

何しろ、コード進行が無視されているからです。

 

しかし、一流のプレイヤーは、ピアノの音を聴きながら、コンピングできるのです。

 

その代表格は、チャーリー・パーカーでしょう。

 

 

さて、何か支離滅裂な文章になってきました。

 

 

ここで、まとめます。

 

 

1.ジャズを一般大衆から隔絶したのは「フリージャズ」である

 

1.しかし、「フリージャズ」は、一部愛好家にとっては魂の音楽である。

 

1.それでも、ジャズがあまり一般大衆化になることは、私的にやや抵抗がある

 

1.ジャズがもっと、分かりやすくなることは、大賛成である

 

1.分かりやすくというのは、アドリブを聞き分ける能力を身に着けることである

 

1.ジャズといっても、スタンダード、映画音楽等にも聴きやすいものがあるということを広める

 

 

やはり、かなり支離滅裂な文章と化してしまいました。

 

 

私の結論です。

 

 

「フリージャズ」は存在価値は大きい、

 

 

しかし、ジャズ普及活動には妨げとなる

 

 

できれば、一部愛好家のために、アングラでいてほしい

 

 

「フリージャズ」のプロ演奏家の皆さま、今回は皆様の応援です。