今日は「フリージャズの功罪」というテーマで、持論をのべさせていただきます。
一部のジャズ愛好家の方からは、もしかして大ヒンシュクを買うかもしれません。
私は、ジャズは好きですが、理論的では決してありません。
その所が、説得力を欠くかもしれません。
少し、感情的になる、幼児性があります。
しかし、敢えて、語ります。
一つだけ、申し上げたいのは、以下の文章は、批判ではありません。
音楽は自由です。
好みも、人それぞれ違います。
まず、最近日本のジャズの人気がやや下火になった気がします。
私が、ジャズの世界に踏み入れたのは、1970年前半でした。
その時代は、ジャズは全盛期でした。
ジャズを聴くということは、オシャレで、カッコいいという風潮でした。
ジャズ専門誌も「スイング・ジャーナル」を始め、数誌出版されていました。
しかし、私、その頃は、アドリブ演奏は分かりませんでした。
即興演奏なのだから、その演奏中に作曲しているのだと思っていました。
まあ、ほぼ間違いではありませんが。
そして、当時から一部の音楽愛好家の人から耳にしたのが、
「ジャズは難しく、分からない」という言葉でした。
それは、ひとつには「アドリブを聴きこなす」能力に欠けていたからでしょう。
しかし、ジャズを庶民から引き離したのは「ニュー(フリー)ジャズ」の登場と思っています。
フリージャズといっても、最低限の規則の上で演奏するのと、
全く、自由に、何の制約を設けずに演奏するのとがあるのです。
聞き手にとっては、主題が見えないのです。
演奏者が創り出す、音の洪水しか、耳に入ってきません。
しかし、一部のジャズ愛好者には、この無制限的、無知序的音の洪水が快感ともなるのです。
テーマは必要としません。
演奏者の感性と、聞き手の感性の共存、またはぶつかり合い、最後は協調し終わる。
ところが、ジャズを大衆に広めたいと考えたなら、無理があります。
以前はダンス音楽であったのが、バップ、ビバップと変遷しました。
バップの頃から、アドリブがジャズにとっては、かなり大きな要素となりました。
しかも、それはコード進行に従うという取り決めがありました。
大衆の人にとっては、このアドリブの解釈が、難関の一つとなりました。
良いアドリブと悪いアドリブの違いを見極めるには、相当多くの演奏を聴きこまないと習得できません。
また、多少その楽器に精通していると、解釈も早いとは思います。
そのように、アドリブをいかに聴きこめるかが、モダンジャズには必要な要素となったのです。
そして、そこに新たに「ニュー(フリー)ジャズ」が登場したのです。
それでなくとも、一般人にとっては、敷居の高かったアドリブが、まさにほとんどアドリブだけの演奏になってしまったのです。
もちろんオーネット・コールマン等、世界的に評価が高かったプレイヤーも多数いました。
しかし、「ニュー(フリー)ジャズ」が、ますます、一般人を、ジャズから遠ざける一因となったと思っています。
私が、言いたいことは、もちろん「ニュー(フリー)ジャズ」が悪いと言っている訳ではありません。
ただし、ジャズをもっと広めようとしたら、弊害とはなりうるでしょう。
ジャズが一部の愛好家のもので、それが何か特権であるかのような錯覚も生み出しました。
多くの一流プレイヤーが、晩年は「ニュー(フリー)ジャズ」へと移っていきました。
ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス等が代表格でしょう。
それでは、なぜ、彼らが「ニュー(フリー)ジャズ」へと移っていったのかです。
それは、音楽的に行き詰まりを感じていたかもしれません。
これは、私の私見です。
そして、その打開策として、アフリカ、アジア、また、神的へと演奏が移っていったのではないでしょうか。
そこに登場するのが、「ニュー(フリー)ジャズ」です。
コード進行、拍子、要するにジャズ演奏の決まり事を無視するのが、ほとんどです。
ジョン・コルトレーンは正に、晩年「ニュー(フリー)ジャズ」へと導かれていった、典型的なプレイヤーです。
彼は、晩年は、管楽器もピアノも入れない、彼(サックス)とドラムスだけで、演奏しました。
また、ピアノが入っている場合でも、自分のアドリブの際には、休ませていました。
また、他の楽器がアドリブを取っている時も、彼は傍観していました。
彼が、1965年に日本公演をしました。
この時代は、ニュージャズが広まっていました。
そして、その顕著なものは、管楽器奏者はピアノをオミットすることでした。
管楽器の出す、アドリブ時の十二音階から離れたかん高い音に、ピアノがついてこれないのです。
この日本公演では、ピアノは随行していました。
それは、ピアノはコルトレーンの奥さんだったからです。
ニュージャズ管楽器演奏家にとって、生真面目にコード進行を進める、ピアノは邪魔だったのです。
話は、「フリージャズ」へと戻ります。
或る意味、「フリージャズ」は演奏家にとって楽かもしれません。
特に、ソロ演奏の場合は、ほとんどの決まり事を無視できます。
一番大きいのは、コード進行を必要としないからです。
何しろ、モダンジャズの演奏家の人たちですら、自分がアドリブソロを演奏している時、どの位置にいるのか分からなくなることがあると、白状していました。
その、厄介なコード進行を無視して、自由気ままに演奏できるのですから、これほど演奏家にとって楽なことはないでしょうか。
もちろん、アドリブの多くは、コードからインスピレーションを得ますので、その分は多くの引き出しが必要となります。
たとえば、フリー演奏をしているピアノ演奏者に、他の楽器は合わせるのは至難の技だと思います。
何しろ、コード進行が無視されているからです。
しかし、一流のプレイヤーは、ピアノの音を聴きながら、コンピングできるのです。
その代表格は、チャーリー・パーカーでしょう。
さて、何か支離滅裂な文章になってきました。
ここで、まとめます。
1.ジャズを一般大衆から隔絶したのは「フリージャズ」である
1.しかし、「フリージャズ」は、一部愛好家にとっては魂の音楽である。
1.それでも、ジャズがあまり一般大衆化になることは、私的にやや抵抗がある
1.ジャズがもっと、分かりやすくなることは、大賛成である
1.分かりやすくというのは、アドリブを聞き分ける能力を身に着けることである
1.ジャズといっても、スタンダード、映画音楽等にも聴きやすいものがあるということを広める
やはり、かなり支離滅裂な文章と化してしまいました。
私の結論です。
「フリージャズ」は存在価値は大きい、
しかし、ジャズ普及活動には妨げとなる
できれば、一部愛好家のために、アングラでいてほしい
「フリージャズ」のプロ演奏家の皆さま、今回は皆様の応援です。